2.《天上貴花》

2.《天上貴花》

【天上貴花《てんじょう・よしか》】

 い、痛い、痛い――!
 頭が割れそう。
 数学の小テスト中だっていうのに、"これ"だ。
 ああ、駄目だ。解けない。数式がただの模様の様に見え、そこに在る意味を認識できない。
「あ、あああ……」
 少しだけ呻き声をもらしてしまう。
 周囲が怪訝な顔をして私を見ている。
 テスト終了まで、あと5分。
 教室の時計を見てそれを確認する。
 途端、意識が、飛んだ。

「貴花ちゃん頭痛い? 次の授業休んで保健室行く?」
 数学の授業が終了した。結局、その日の授業内容を確認する小テストは、突発的な頭痛の所為で、一問も解けなかった。
 完璧に内容を理解している自信があったのに。
 そんな私を、前の席に座る斎藤加奈が、心配してくれる。
 しかし、小テストが終了して暫くの後に痛みは引いたので、あえて授業を休む必要は無い。
「い、いや……大丈夫、だから」
「無理はしないでね」
 無理をしているつもりは無い。
 私は、授業を受けに学校に来ているんだ。休む事の方が道理に反している。

 加奈は、短めの茶髪の女子であり、私の友人でもある。
 何の事も無い。ただ席が近かったから付き合いが出来ただけ。
 特に共通の趣味がある訳でもない――そもそも私にはこれといった趣味が無い――、至って平凡な関係。
 自分で言うのもおかしいけれど、私も加奈も、一介の女子生徒でしかない。所詮はそんなものだろう。
 ただ、彼女は"良い子"だ。
 加奈は私を含め、他人の事をよく心配してくれるし、気遣ってくれる。
 この市立櫻岡高等学校2年A組の級長である染井芳乃にも匹敵する"良い子"っぷりを見せる。
 そこが、私と違うところ。
 私は、他人にそこまで興味が無い。
 人生の中で特別何かがあった訳でもないけど、自然と、人間のあらゆる関係性を"利害関係"として認識するようになった。
 例えば友達関係もそう。
 付き合ってあげるかわりに、付き合って貰う。
 付き合って貰えなくなるのが予想できるから、付き合いを怠ることはしない。
 そして、付き合いを維持できる範囲で、精神的な疲労を溜めないよう、出来るだけペイを抑える。
 まさに取引だ。
 それだから私は、他人そのものに興味を持つ事は無く、自分と対象が取り得る利害関係の性質にのみ拘る。
 自分の利益、すなわち居心地の良さだとかそういうものに直結しなければ、他人を気遣う事など、出来るだけ、しない。
 気苦労は少ないに越したことは無いから。
 まあ、そもそも加奈や染井さんみたいな"良い子"は、気遣いをする事を気苦労だとは感じないんだろうけれど。

 放課後。
 加奈が早速、私を誘ってくる。
「貴花ちゃん。今日この後暇なら、一緒に買い物行かない?」
 断る方法はいくらでも思いつくが、今日は断らない。
「良いよ。行こう」
「やったあ!」
 私は、不必要な努力や付き合いはしない。
 ただ、そろそろ必要になってくるであろうと感ずれば、こうするのは決してやぶさかではない。
 そこが所謂、コミュニケーション障害と違うところ。
 私は気苦労が嫌いだ。
 他人と話す内容を考えるのは割と疲れるし、そもそも人に合わせる事そのものが精神を擦り減らす原因になる。
 それでも、収支がプラスになるんなら、それを厭わない。
 一人で日常を過ごしていけるほど、私は強くないからね。
 さて。
 財布を見る――約六千円か。
 あまり金を使いすぎると、今月の昼ご飯は霞みを食べる事になる。
 ただでさえ苦痛に喘ぎながらバイトを頑張っているんだ。時間を売って得たものは大切にしなくてはならない。
「そろそろ夏物の新しい服が欲しいと思ってさぁ」
 加奈が楽しそうに言う。
 良いものだね。お金があるというのは。
 私だって別に、困窮に喘ぐ程、金が無い訳じゃないけれど。
「私は去年ので良いかな。お金ないし」
 とりあえず正直に返事しておこう。私が貧乏なのはご存知の筈だ。
「流石に服は買ってあげられないけど、リボンなら良いよ。前から言ってるけど、貴花ちゃんの黒髪ツインテールに黒リボンはちょっと……」
 またそれか。そんなものは個々人の好みだろう。
「別にいいって……」
 適当に答える。別に欲しいわけでもないのに買わせるのは、やっぱり気が引ける。
 それにしても、夏物か。
 もう夏になるのか。

 "あれ"が起きるようになったのは、今年、2年に進級してすぐの頃だった。
 最初はただ、風邪でも引いたのかと思っていた。
 それからすぐ、1週間ごとに頭痛が発生するようになって、何だかおかしいと思い始め、近所の診療所へ検診に行った。
 結果は、特に異常なし。
 "何が異常無しだ、もっとちゃんと調べろ"と、思考の内側で愚痴ったりもしたが、とにかく私の頭痛の原因は不明。
 6月に入ってからは、いよいよ3日ごとに原因不明の頭痛が発生するようになった。
 そしてその辺りから、頭痛と共に、数分間の記憶が飛ぶようになる。
 流石に危険だと思って止むを得ず、こじんまりとした診療所なんかでなく、設備の整った大病院へ行った。
 それでもやはり、原因は不明。
 "精神的な問題ではないか"などという指摘はあった。
 でも、そんな筈は無いと思っている。
 私は一般的な家庭で育ち、一般的な生活をしている、一般的な人間だ。
 逆に言って私は、一般の水準まで到達している。精神を病むような出来事について、心当たりは全くない。
 正直なところ、どうすればいいのか全く分からない。
 とはいえ、全く手が打てないのなら却って諦めがつく。
 悩みの種ではあるが、私が何かする事で解消する方法が見当たらないなら、何とかしようと拘泥する必要もない。
 ただ、耐え凌げばいい。
 なに、そのうち治るだろう。
 困ったことが起きれば、起きた時に対処すればいい。
 後手上等。それが私の生き方。
 私の妹は、まだ身に起こっていない事に対していちいち気を巡らせるタイプだが、それはあまり建設的ではないと思っている。
 大抵の事は、普通に行動していれば案外なんとかなるものだから。

「ちょっと暗くなってきたな―」
 近所のデパートで買い物を済ませた後、私と加奈は、ようやく帰路につく。
 既に日が落ちている。長居しすぎた。主に加奈の所為で。
「あなたが迷い過ぎなの」
「ほら、私達高校生だからね。お金がいっぱいある訳じゃないから、慎重に選ばないと、ね?」
「ふぅん……まあいいけど」
 迷った時は買わない。それが私のモットー。
 結局のところ、"これ"というものが無かった訳だから、急を要するのでない限り、買わないのが一番、後悔するリスクを減らせる。
 まあ、それは私の価値観であって、加奈の勝手だけれど。
「あ、私こっち。また明日ね」
 加奈が、分かれ道の片方を指差した。
 何度も加奈には付き合ってるんだから、言われなくても分かる。
「知ってる。また明日」
 荷物を持っていない方の手で、私に向かって手を振りながら去っていく。
 私も合わせて、軽く手を振ってあげた。
「はぁ……」
 少し疲れて、ため息を吐きながら、一人で進む。
 突然、袖を裏路地の方向へ引っ張られた。
「えっ?」
 混乱するとともに、バランスを崩して転ぶ。
 一体何だ?
 見上げると、男が4人、私を囲んでいた。
 恐怖を感じた。動悸がする。怖い。
 一方で、何らかの言葉のやり取りがなされる前から、私の中の冷静な部分が、状況理解を行った。
 私は今、襲われている。
 何とかしないと。何とか。
「よう姉ちゃん。俺達と一緒に遊ばねぇか?」
 男の一人がチンピラみたいな典型的誘い文句を述べるが、馬鹿の言葉に答える必要はない。
 今ならまだ、こいつらは油断している。
 裏路地を塞ぐように男がそれぞれの方向に立っているが、走り抜けて逃げられなくはない。
 逃げるのであれば、より通りに近い方。
 私は、駆けようとした。
 が、そもそも立つ事が出来ない。
 いけない。頭では動いた方が良いと理解していても、腰を抜かしてしまって動けない。
 すると、後ろに立っていた男が突然、私の胸を掴んだ。
「っ……!」
 まともに声すらも出ない。それでも、気持ち悪さで涙は出てくる。
「結構デカイなぁ。この娘持ち帰りしていい?」
「当たり前だろ! 結構可愛いし!」
 耳元で不吉な会話がなされる。
 嫌だ。嫌だいやだいやだ――!
「誰かに見られたらヤバくね?」
「何言ってんだアホ。だからこの時間でこの場所なんだろ」
 誰か、誰か助けて。
 お願いだから。
 届く筈も無い願い事をしていると、腹部に鈍い痛みが入り、意識を失った。

 目を覚ます。
 知らない部屋。
 手足を縛られ、正面の男に、制服を脱がされている最中だった。
 その事実を確認した途端、再び涙が溢れる。
「うわっ、泣き顔カワイイ……滅茶苦茶に犯してぇ……」
 男が下種な笑みを浮かべている。
 私、犯されるんだ。
 思考を諦めが支配する。
 逃げられるかもしれないチャンスすら、私は逃した。
 もう、ここまで来てしまったら駄目だ。
 自分が制服のスカートを脱がされている事で発せられる衣擦れ音が、妙に遠く感じる。
 ああ、どうせならこんな時に、件の頭痛に見舞われたかった。
 こんな嫌な記憶、私は要らない。
 視界がぼやけるのは、涙の所為か、それとも苦しくて意識が曖昧な所為か。
 早く。
 早く終われ。
 こんなゴミみたいな時間、早く終わればいい。

 早く。早く。速く。速く。速く。速く。
 速く速く速く速く速く――!

「う、あ、ああ"あ"あ"あ"あ"あ"!」
 突如起こった、私の制服に手をかけている男の絶叫も、今の私には遠い様に聞えた。
 "かつて"私の制服に触れていたこの男の腕は、肘から綺麗に切断されていた。
 血しぶきが私の肌に大量にかかり、異臭が鼻を刺激する。
 だけれど、苦痛という程には感じない。
 頭が熱い。どこか浮ついた気分だった。地に足がついていない様な。
 そんな私の感覚とは関係なく、腕を失った男は、痛みでのたうち回る。
 私は、何故だか全てを理解できた。この惨劇は私が望んだのだという事も。
「お、おい! テメェ、何しやがった!」
 別の、少し離れた所に居た男が激昂して、ナイフを取り出し私に向ける。
 私は、今までに比べて、至って平静だった。浮ついているが故に、落ち着いていた。
 これ、多分正当防衛だよね。
 ナイフの男が向かってくる。
 うん。私に殺意を向けたんだから、間違いなく正当防衛だよ。
―――加速。
 脳内で唱えた瞬間、男の腕と、それ以外の部位が、ずれた。
 体に比べて僅かに先行している、ナイフを持っている方の腕は、そのまま床に落下する。
 まるで、"身体に比べて、腕だけが先の時間の物体として存在している"かのように、私に振り下ろされるような形になっていた。
 つまり、これはそういう力なんだろう。
 "現在という時間軸の中で、特定の物体だけを、別の時間軸の同一物体に変更する"。
 別の男が私に殴りかかってくる。
 私は咄嗟に、転がっている腕が持っているナイフを奪い、軽く投げたのち、加速を願う。
 全く同時、"ナイフ"という単一のオブジェクトの時間のみが数瞬間後に飛び、それはちょうど、男の腹部の辺りに移動した。
 腹部から流血しながら、絶叫する男。
 恐らく、あれは刺突による痛みではない。男の身体と同座標に重なったナイフが、内臓と肉を傷つけているんだ。
 違う時間の物体と重なったらどうなるのか、想像つかないけど。
 一人だけ無事だった男が、情けない声を上げながら逃げ去ろうとする。
 リビングのドアの方向に走る男。私の胸を掴んだ男だった。
 そのドア、開いてないよね。
 それを確認すると私は、逃げようとする男、その全身の時間を先送りにする。
 ドアを開ける前に、ドアがある位置を通る。つまりどうなるかは、予想通りだった。

 ふと、頭の熱が冷め、ぼーっとするような感覚が無くなった。
 感覚が平時に戻る。
 それは、目の前の惨劇を、直に受け止めなければいけない事を意味していた。
「何……これ……」
 失血し、気を失っている、3人の男。
 そして後の一人は、ドアに埋まっている。
 強烈な視覚情報と、血の臭いで、私は嘔吐した。

【東岸合理】

 俺は、いつも通りに学校で授業を受けて暫くした後、妹の背理と共に、とある寂れた一軒家の前に立っていた。
 理由は、同級生の天上貴花の監視。アイツがチンピラ共にこの家に連れ込まれたのも見ていた。
「なあ、背理。本当に助けなくていいのか?」
 正直、あの程度の連中なら、背理を動かすまでもなく、俺でもすぐに駆逐できるんだが。
 "もしあの子に何かあっても様子見しろ"という、定理姉貴の指示があったのだから仕方が無いとはいえ、気分が良いかと言われれば否だ。
「仕方ないでしょ。それでも、本当に危なくなったら多分、私は自分を抑えられなくなるけどね」
 背理も苛々して、落ち着かない様子だった。
 コイツは俺ら第五世代の中で、一番"こういう事"が嫌いな奴だ。
 弱い者が理不尽に暴力を振るわれ、犯される。そういうのに嫌悪感を抱かない人間の方が少ないだろうが、中でも背理は顕著だ。
 コイツには人並み以上の正義感があり、かつ自らの正義感に対して絶対的な自信を持ち、指針としている。
 俺は――恐らく定理の姉貴も――、こいつとは違う。コイツほどマトモじゃない。
 俺は、知らない男共に強姦されそうになっているのが同級生の女だからこそ、この現状に対して苛立ちを覚えている訳で、これは何だか正義感とは違う気がする。
 正義感っていうのは、どんな状況でも適用されるべきものだから。
 そして、どうせ定理姉貴は、そんな俺達の性格を知ってて"様子見しろ"なんて言ったんだろう。
「全く、定理の姉貴も酷い奴だよ」
 ぼやかずには居られないね、全く。
「定理姉は人の為に行動している様でその実、世界の為にしか動いてないだろうから」
 背理が、少し悲しそうな顔をする。
「まあ、そうだろうな」
 定理姉貴は、東岸家の家訓に忠実である。
 全体の為に人間一人ひとりの運命を軽視する程度には。
 だからこそ、利用できるなら利用する。アイツはそういう奴だ。
 俺なんて、例えそいつが凡人だろうが、余裕で人ひとりに揺り動かされる程度の人間だっていうのに。
 尊敬を通り越して畏怖を感じる。
「まあ、どの道、"こちら側"に来たんなら、仕方ないよ」
 冷たい物言いだった。
 さて、俺達が天上を監視している理由は、アイツが《特異》に汚染されている可能性があるからだ。

 特異。
 それは、特別性の中でも、例外的な概念を示すのに姉貴が用いた言葉だ。
 例外的、即ち、この世界の法則を超越した概念。
 高次元概念である論理武装や概念生物は、その代表例と言える。
 特異が持つ特徴は、その汚染性である。
 それらはこの世界に存在する筈のないものであるが故に、この世界を崩壊させていく。
 昨日だって、エーデルワイスがもし定理の制御が効かないほど複雑な存在だったなら、俺に有無を言わさずエリアアウトさせていただろうな。
 また、何事も一度大きな綻びが発生すれば崩壊は容易いもので、連鎖的に世界の概念はその存在を保てなくなり、消滅するという。
 その速度は、世界が自らの欠損部分を埋めて修正する速度を遥かに超える。
 しかし、特異とは力でもある。制御できればそれは、自らの宿す狂った法則によって敵対者の概念を粉砕する、規格外の武器――《特異能力》になる。
 無論その場合でも、世界を破壊していく諸刃の剣であることに変わりはないのだが。
 つまり定理が望むのは、そういうことであろう。
 "存在を保ったまま特異を宿した者を味方に引き入れ、協力させる"。

 そして、もし天上が本当に特異を宿しているならば、アイツは否応無しに、一般人としての在り方と決別しなくてはいけなくなる。
 それはまるで、自分の様だった。妹や姉のような才能が無かった俺が、東岸としての重圧を押し付けられた様な。
 自分の運命というのは、嫌でも逆らえないものだ。
 救われないな。
 そう思うのは、共感者を欲している弱者である証なのだろうか。

 「う、あ、ああ"あ"あ"あ"あ"あ"!」
 突然、例の一軒家から、男のものと思しき絶叫が聞こえた。
「背理、どうする?」
「流石に、行くしかないでしょ」
 背理、言質は取ったぞ。お前が姉貴に怒られろよ。
 俺が先に扉を開けようとしたが、鍵が掛かっていた。
「破るか?」
「合理兄にはスマートさが無いんだよ」
 呆れ顔で俺を見下した発言をする。ああ、嘔吐させたい。今はそんな場合でもないが。

『《理想剣(ブレード・オブ・アイディアル)》――行使《ディフィニション》』

 囁く背理。その手には、鍵が握られていた。
 背理の《理想剣》。理想と現実の間にある矛盾を切り裂き、理想を世界に容認させる論理武装。
 背理は、"何処か知らない所に在るこの家の鍵が、自分の手の内に在る"という矛盾を容認させたのだ。
 まあ、この程度の理想なら、思考コストも世界へのダメージも殆ど無いだろう。
 背理は、鍵を扉にゆっくりと差し込み、解錠する。その間にも、先とは別の絶叫が、中から聞こえてくる。
 扉を開けると、すぐに酷い異臭を感じた。
 この臭いは、紛れも無く血。
 そして、恐らくリビングを隔てているであろうドアには、男の死体が埋まっていた。
 全く、どうなってやがる。
 背理も、気味が悪いといったような顔をしているので、仕方なく俺がそのドアを開けてやった。
 中は酷い惨状だった。
 切断された腕。
 血を流して横たわる3人の男。
 そして、嘔吐したと思われる女。
 紛れもなくその女は天上貴花だったが、顔も、制服のシャツのボタンを外され下着を露わにした身体も、艶めかしい足も、全て血濡れになっていた。
「助けて……私、何も分からないよ……」
 涙を流しながら、天上は俺を見上げた。
 少なくとも、俺の目には、助けを求める天上が嘘を吐いている様には見えない。
 恐らくは本当に、何も分からないうちに拉致され、何も分からないうちに純潔を奪われようとしていたのだ――まあコイツが処女だっていうのは俺の勝手な想像で、実際は不明なんだが――。
 そして、何も分からないうちに下種共を虐殺したと。
 天上の身に特異が発現した事は、すぐに察知できた。
 背理が俺の後ろで理想剣を用いて、"有る筈の死体は無かった"という矛盾を世界に押し付けている。人間四人の存在した痕跡を消し去るという冒涜的な行為だが、背理には躊躇いが無い。
 
 背理は、下衆を極端に嫌う。
 それ以上に、意図はしていないと思うが、コイツはコイツで力が無いヤツを軽視する傾向にある。コイツにとっては殆どの人間が、いわゆる"エキストラ"でしかない訳だ。
 だからこそ、弱者を守る。
 だからこそ、容赦なく"処理"する。
 余りにも自己中心的な正義だ。まあ正義というのは、そういうものなのかもしれないが。

 さてと、背理の事はいい。
 目の前の同級生をどうしたものか。
 表出している肌の面積が多くて少し目のやり場に困るが、とにかく声をかけてみるか。
「大丈夫か、天上」
 どう見ても大丈夫じゃない。何言ってるんだ俺は。
 ところで天上は、同級生である俺が当然の様に目の前に立っている事について何も言及しないのか。
 まさか顔すら覚えられていないと言う事はあるまい。
 俺だって、今までのコイツとの関わりは皆無に等しいものの、顔くらいは覚えている。
 気が動転していてそれどころじゃないんだろうか。
 そんな事を思っていると、ふと天上が立ち上がった。
 そして、何を思ったのか、俺に抱きついてきたのだ。
「あ!?」
 思わず驚きの声を上げてしまうが、相変わらず天上は泣きっぱなしだった。
 どうしてこうなった。一体、俺はどうすればいいんだ。俺に何をして欲しいんだ。抱き返せばいいのか。
 少し視線を下げてみると、天上の、割と大きめな胸が押し付けられているのを認識できた。
 わざとやっているなら、とんだあばずれ女だが、そんな風にも見えない。
 いや、俺の目が節穴だからそんな風に見えないだけなのか。実際、俺に他人の考えていることなんて分かる筈もないのだが。
 それともこれはアニメだかライトノベルだか、そういうものか。
 いや、まさかとは思うが、これは、俺が"東岸"であるが故に起きた事ではないか。
 俺が、どれだけ妹である背理や姉である定理に劣ろうが、背理は俺が"東岸である事"を強調する。
 つまり俺が何かしらの一連の物語における主人公だからこそ、結構可愛い同級生の女に抱きつかれたりするのかもしれない。
 この状況は正直、そんなラブコメディみたいな笑えるようなものではないが。
 これは明らかに、一般的な日常と大きく乖離している。人間4人が普通じゃ考えられない死に方で死んでいて、辺りは血まみれで、脱ぎかけの女が居て、ソイツは特別仲が良い訳でもないのに何故か俺に抱きついてきて。
 俺はあんな家庭で生活してるものだから、正直なところ、人死に対する感覚は麻痺してきている。
 だが、俺の目で見てどうにも道理が分からないことに対しては、未だに慣れることができないようだ。
「なにやってんの?」
 背理が、見飽きた呆れ顔でこっちを見る。
「わからん」
 様々な予想を立ててみたものの、実際、天上が何のつもりか分からないのだ。何をやっているかと言われても困る。
 天上の顔を見てみると、落ち着いたのか、俺に抱きついたまま眠っていた。
「背理、どう思う?」
 コイツに訊いても分からないと思うが、一応訊くだけは訊いてみるか。
「安心したかったんじゃない?」
 俺の質問の意図を汲み取ってくれた背理がそれらしい事を言うが、それも納得できるものではなかった。
「俺に抱きついたら安心できるのか?」
「さあ」
 適当な事言いやがって。それは多分違うだろう。
 天上は、男に暴行されそうになったばかりなんだぞ。むしろ男性恐怖症になってもおかしくない位だ。
「で、どうすればいい?」
 そうだ、理由なんて後で訊けばいいのだ。別に理由なんか無いかもしれない。
 とりあえず今、どうすればいいかを確認すべきだ。
「定理姉のとこに連れていこう」
 そうか。まあ確かに、定理姉貴なら何とかしてくれる。
 精神状態の解析位は容易いだろう。
 そもそも姉貴はこうなることを見越して、俺達に、事前に天上を救わないよう指示したのだろうし。
「で、誰が運ぶんだ?」
「合理兄に決まってるでしょ」
 コイツはわざと言っているのか。
 万が一誰かに見られたら、俺が強姦魔みたいに認知されるかもしれないんだぞ。
「せめて《剣》で視覚隠蔽位はしてくれ」
「やだ」
 腹ぶん殴って嘔吐させてやろうか、このアマ。
 憤怒しそうになる自分を抑え、俺は仕方なく天上に制服を着せ、彼女を背負った。

 時間が遅い為か、幸い誰にも見られる事無く、俺達は家に帰る事が出来た。
 居間で待ち構えていたのは、定理の姉貴。
「特異は発現したのかしら」
「……ああ」
 頷く。
 白々しい奴。発現する可能性が高かったからこそ、俺達に手を出させなかったんだろうが。
 天上を畳の上に寝かせつつ頭の中でぼやいていると、定理姉貴が天上を揺さぶった。
 今、上手くやれば、――天上にとっては――全てを夢で終わらせる事だって不可能ではない。
 しかし、当然なのだが、定理姉貴にそんな気はないようだった。
「こ、ここは……?」
 目を覚ました天上が困惑している。
 さて、姉貴はどうするつもりかね。
「あなたは天上貴花ね」
「え、ええ」
「色々気になる事もあるだろうけど、とりあえず今はもう遅いから帰りなさい。また明日、此処に来なさい」
 天上の親は、娘の帰宅が遅くなって心配している事だろう。
 流石の姉貴でも、人の心は持っているのか、そういう配慮はするようだ。
「え? わ、わかった……」
 状況が掴めないでいるものの、もの分かりは良い様子の天上。
「夜道が怖いと思うから、そこの男をつけるわ」
 へえ。ボディーガードまで付けるとは。
 それで、そこの男って誰だ。
 俺に向かう、姉貴と天上の視線。
「俺かよ」
 いつも通り横暴だな、姉貴。
 分かったよ。行ってやるよ。行けばいいんだろ。

 天上と二人で夜道を歩く。
 天上の表情は暗かったが、落ち着いてもいた。
 いや、よく見ると、体が少し震えている。
 整理がつかないだけかもしれない。
「寒いのか?」
 俺は天上に訊くと、上着を差し出した。
「ありがと」
 受け取って、俺の上着を羽織る天上。
 これは、今後の天上に対する接し方を考えるための、一つのテストだ。
 これで今の天上が、全ての男に対して無意識的な嫌悪感を抱いているという事は無くなったと言える。
 むしろ、俺に対していくらか友好的と見ても良い。
 でなければあんな状況だったとはいえ俺に抱きついたりしないし、上着を受け取る事も無かっただろう。
 とはいえ、その感情が好意である可能性は高くない。
 実際のところはやはり、俺と天上の間には殆ど付き合いが無かったからだ。
 様々な活動の中、必要に迫られて会話したことはあるが、自ずと関わりと求めた事は、お互いに皆無である筈。
 これで惚れられる程、人の心《システム》は単純ではない。
 仮にそんな事があったとしたらそれはつまり、"東岸"という名が俺にある種の特別性を与えたのだろう。
 そして、もし俺が"東岸"であるが故にコイツの好意を受ける事になったというのなら、それはコイツの自由意志を侮辱したことになる。
 "東岸"という名の特異が、天上の本来持っているべき心《システム》を破壊してしまったことになるのだ。
 この仮説が事実だとしたら、やはり俺は自らの名を恨まなくてはいけない。
 他人から何かを奪うだけしか能がない特別性。そんな生産性のないものを欲しいとは微塵にも思わない。
 まあ全てが単なる考えすぎであってくれれば、それでいい。
 俺に対して好意があろうがなかろうが、これ以上コイツに傷をつけてはいけないのは確かだ。
 姉貴がどう思っているか知らないが、天上はただの被害者。
 俺も、あまり人の事は言えないが、下劣なクズ共の情欲と、自分の知らない世界の思惑に巻き込まれただけの被害者だ。
 であれば、俺は可能な限り、天上を救う必要がある。
 コイツが救われるのを否定する事は、"東岸"の名を嫌でも背負わされた俺自身の感情を否定する事になる。
 世界の為でも正義の為でもない。あくまで自分の為に。
「なあ、天上。色々訊きたいことはあるだろうけどさ」
「うん……」
 その、なんと言おうか。気の利いた事を言えるほど、俺は優れた人間でもないが。
「今は考えなくていい。不安かもしれないが」
 黙り込む天上。
 何も言わないのではなく、何も言えないという感じだ。
 コイツは、下手をすれば一生心に刻まれる経験をした訳だから。
 クソ。やはり俺だけでも動いて、助けておくべきだった。
 被害者の同級生を見て、俺は遅すぎる後悔をした。
 無言のままに暫く歩いていると、天上が、ある一軒家の前で止まった。ここがコイツの家であるようだ。
「じゃあな」
 軽く手を振ってやると、天上も頷いて答えてくれた。

 翌日。
 俺はいつも通り、市立櫻岡高等学校2年A組に登校し、授業を受け、昼休みになった。
「うーん……大丈夫かなぁ」
 俺の隣の席、2年A組の級長である染井芳乃が唸っている。
 コイツは人並み外れて面倒見の良い女で、日々のA組の出席状況を完璧に把握している。
 悩ましきは恐らく、今まで一度の欠席も無かった天上が、学校に来ていない事だろう。
 俺は、朝からアイツの事が気になっていた。
 いくら"考えなくていい"なんて言ったって、普通の人間はそんなに器用じゃない。あんな事があれば、自室に引きこもって思考の縛鎖に絡め取られていても、おかしくはない。
 最悪、決壊する。
 そうだ、俺は呑気に学校に来ている暇なんか無い。
 定理姉貴は、家訓を守るためならば天上の人生などお構いなしに利用しようとするだろう。
 背理は背理で、"こちら側"に来た以上は、それを受け入れなければいけないと思っている。
 何とかしようとするのは俺しか居ない。だが、天上の為に俺は何が出来る?
 アイツの意図は未だ見当もつかないが、少なくとも俺はアイツの彼氏でも友人でも何でもない。
 支えになれるような立場ではないのだ。
 天上、あんたは俺なんかに何をしてほしいんだ?
「天上……」
「東岸くん、天上さんがどうかしたんですか?」
 染井が俺の顔を覗き込んでくる。
 いかん、アイツについて考えていたら、つい名を口に出してしまったじゃないか。
 やめよう。考えても分からない事を考えるなんて、無駄に等しい。
 後でアイツに訊けばいいだけだ。
 多分、大丈夫だろう。
「いや、なんでもない」
 染井には、適当に返事だけしておく。

 授業が終わってから、俺はすぐに天上の家に向かった。"家に来い"と定理姉貴は言っていたが、引きこもっていて来られない可能性だってある。とりあえず、迎えに行く位の事は俺にも出来るだろうと思っての事だ。
 目の前の一軒家のインターホンを鳴らしたのちに出てきたのは、胸が平坦な事以外は天上とそっくりな女。双子の妹という感じだろうか。
「あなたは?」
 辛うじて聞こえる程度の声量で喋る、推定妹。
「ああ、俺は東岸合理。天上……貴花の同級生だ。アイツの様子を見に来たんだが」
 用件を伝えると、推定妹は、表情一つ変えずに俺を家へ招き入れた。
 天上も、あまり明るい方じゃないが、コイツはそれにも増して陰気な印象だ。
 家の中は、いかにも中流家庭といったような住宅。とはいえ、俺らの家と比べると随分狭く感じてしまうが。

「姉さんは二階」
 推定妹が階段の方を指差す。
 どうやらコイツは本当に妹だったらしい。
 階段を上って廊下を進むと、扉に"貴花"と書いてあるプレートが貼ってある部屋を見つけた。
 一応ノックするも、返事が無い。
 ドアには鍵を掛けていない様なので、勝手に入らせていただく。
 まだ日は落ちていないが、窓にはカーテンが掛かり、電灯以外の光を遮っていた。
 天上はと言えば、パジャマ姿でベッドに座りつつ、俯いている。
 俺の上着を膝に掛けているのを見て、昨日は上着を返してもらうのをすっかり忘れていたことに気づく。
 さて、どうしたものか。
「行こう……俺があんたを守るから、何も心配しなくていいんだ」
 俺は何か気の利いた台詞を言おうとして、後悔と罪悪感から、ついそんな事を口走ってしまった。
 俺らしくもない。完遂できる目のない約束なんて、するべきじゃない。
 何が"俺があんたを守る"だ。そんな歯の浮くような台詞、よく言えたもんだ。
 天上が少し驚いたような顔をした後に、ベッドから立ち上がり、クローゼットに向かう。
 どうやら動く気になってくれた様で助かる。
 そのまま天上はパジャマを脱ぎ捨て、私服に着替え始めた。
 おいおい。"出てけ"位言ってくれよ、もう。
 俺だって男なんだからな。
 これ以上衣擦れの音を聞いていてはエロい気分になりかねないので、俺は迅速に部屋の外に出る。
 天上も、着替えが終わって部屋から出てくる。
 面倒くさかったのか、いつものように、髪を両側で束ねてはいなかった。
 1階には、一人で黙々とテレビを見ている天上妹。入ったときも両親は見当たらなかったが、おそらく仕事に出ているのだろう。
 一応断りは入れておくか。
「すまん、ちょっと姉を借りる」
「うん」
 至極どうでもよさげな返事。
 真っ当な友人関係に見えているならそれでいいんだが。例えば、俺が天上を嬲ったりだとか、そういう警戒はしないんだろうか。あるいは、姉に興味が無いのかもしれない。
 ともかく了承を得られたのならそれでいい。
 俺は天上を伴って帰宅した。

【天上貴花】

 私が、今、隣で一緒に歩いている同級生のあなたに抱きついたのは、咄嗟の行動だった。
 混乱している最中ではあったけど、それにも関わらず私の中枢部分は打算を続けた。
 結果、あそこでああいう風にする事が、最も自分を守る事に繋がるのだという解答を、瞬時に導き出した。
 私は所詮、そういう人間だ。
 何も言えないでいるのは、辛いからってだけじゃない。
 何も分からないからってだけじゃない。
 恥ずかしいんだ、こんな私が。
 今日は、散々考えた。悩んだ。あなたは"考えなくていい"なんて言ってくれたけれど、そういう訳にはいかない。
 例え何の意味もなくても、私には悩む責務があると思う。
 不可抗力とは言え、私は恐らく、人を殺した。
 そして自分の利益の為に、他人を呪縛した。
 打算は私の性分だけど、あくまで私は双方が得をする結果を善しとしている。
 これはどうなんだ。
 他人を面倒事に巻き込んでおいて、自分は被害者面をし続ける事、それはどうなんだ。
 事情は分からないけど、"あんたを守る"って言ってくれて、とても安心できたし、嬉しかった。
 それでも被害者面を徹底する為に、そんな気持ちを表に出さない自分が憎い。
 安心に浸っていたいから、"私の為にそんな事しなくていい"なんて言えなかった自分が憎い。
 こんなずるい人間で、ごめんなさい。

 東岸君の家に着く。
 やっぱり、大きい屋敷だ。普通の男の子っぽい見た目からはそんな風には思えないけれど、東岸君は金持ちなのかもしれない。
 庭から直接居間に入る。私が昨日寝かされていたのと同じ部屋だ。
 そこに居たのは、昨日も見た、黒髪の女子。
 私はこの子の名前を知っている。

 2年E組、東岸定理。
 他クラスと言えども、この子の名前を知らない人はそう居ない。
 だからって名の知られやすい生徒会役員なのかといえば、そういう訳ではない。むしろ、噂によれば生徒会役員とは仲が悪いのだとか。
 友人が多く、巨大グループの頂点に立っているのかといえば、そういう訳でもない。
 成績だ。
 東岸さんは、去年櫻岡高に転校してきて以来、常に学年でトップを取り続けている。
 順位を見れば、いつも1位が東岸定理、2位が東岸背理――おそらく姉妹だろう――となっていた。
 それも、全教科満点という、馬鹿げた点数で1位だ。
 カンニングを疑われて、教師の厳重な監視のもとでテストを受けても、やはり同じ点数だったという。
 良すぎる成績を武器にして、生徒会役員に準ずる特権を学校側に認めさせているという噂も立っている程だ。
 実際のところ、そんなものがあるのかは知らないけれど。
 あと、"近寄りがたさ"でも、相当なものだとか。
 実際にこうやって目の前にしてみて、確かにそうだと感じる。言葉にはできないけど、直感的に"ただものではない"と思わせるような、そんなものがあるような気がする。

「こんばんは」
 無表情で私に向かって、至極作業然とした感じで挨拶する東岸さん。
 それに対して、軽く頷くだけで答える。
「時間を与えたとはいえ、随分冷静なのね」
 続けて東岸さんは疑問を口にした。
 表情一つ変わらないだけに、意図が読めない。
 とりあえず、正直なところを答えよう。
「焦ったってどうしようもないから。普通の人間っていうのは最適な選択しなければやってられないし」
 後半は少し嫌みが篭もってしまったか。
 東岸さんが、何となく"普通じゃない"なんてことは、私を含めた一般人でも皆感じている。
 私は弱い。弱い人間に失敗する余裕なんかなくて、だから私は、場合によっては一時の感情を無視して打算をする事で、より幸福を感じられると思われる道筋を目指す。
「本当に普通の人間は、そこまで割り切れないものよ」
 なに、それは私の答えに対する指摘なのか? 私が普通の人間じゃないとでも言うのか。
 一般的な家庭に育ち、そこそこの生活環境があって、私自身も学業、遊び、人付き合い全てそれなりに頑張ってきた。
 別に、おかしな事なんて、人生のうちで何もなかったと断言していい。
――そう、最近までは。
「まあいいわ。さて、あなたには、何から訊けばいいのか見当もつかないだろうから、此方から説明するわ」
 東岸さんは話を切って、本題に移った。
 少し癇に障る言い方ではあったが、"何から訊けばいいのか分からない"のは正直、事実であった。
 私の事。東岸さんの事。それと、柱にもたれかかって、なんだか暗い顔をしている東岸君の事。
「天上さん。おかしな事を訊くかもしれないけれど」
「……うん」
 覚悟なら出来てる。冷静に"あの時を"振り返ってみると、おかしな事が起きたとしか言いようが無かったのだから。
 まともらしい説明なんて、端から期待してはいない。
「あなた、そうね……何と表現しようかしら」
 何を勿体ぶっているのだろう。
「"超能力"って、信じる?」
「はあ!?」
 何を言っているんだ。
 いけない。おかしな事を言い出すのだろうと予想できていた筈なのだが、つい素っ頓狂な声を上げてしまった。
 覚悟はしていたとはいえ、"超能力"なんて単語を聞くと、やはり常識からの乖離感が大きすぎる。
 そういったモノであるとしか解釈できない現象を目の当たりにしたのにも関わらず、あんな事があっても未だ常識に埋没した私の理性が、解釈を否定する。
「い、いや……そんなの、非常識的すぎるって」
 一応、質問には答える。
「本当にそう考えてる?」
 すると、東岸さんが私の顔を覗き込んで言い返した。
 私が一貫した思考を持てていない事など、お見通しらしい。
 常識が本当に正しいのか、今の私には――
「……分からない」
 信じるか信じないかなんていう風に、二元的には答えられない。
「そう。じゃあ見せてあげる」
 東岸さんは、それを何でもない事のように口に出す。
 それを聞くと東岸君は、やっぱり辛そうな顔をして、居間から立ち去っていく。

【東岸定理】

 合理は、天上さんを"此方側"に巻き込みたくない様子だ。
 彼の、"東岸という名前を押し付けられたくなかった"というメンタリティ故の、共感に類似する感情だろう。
 だが、それは無理な話。
 何故ならば、彼女はもう、足を踏み入れてしまったから。
 其れは私の画策による結果ではない。彼女は以前から、冒されていたのだ。
 本人は未だに"その他大勢"であると思っている様だが、天上さんは紛う事無き特異点である。
 故に、私は彼女を牽引する。

 さて、この様な事は1年と2カ月ほど前にもあった。
 私達は市立櫻岡高等学校に転校する前に、私立聖領学園というこの辺りでは名門と呼ばれる私立高等学校に通っていたが、その頃、私は"駒"の育成に専念していた。
 聖領学園で取り込んだ私の駒である二名は両者とも、私が干渉する前から、一般性の内に埋没できない人間であった。
 数理システムに惹かれるあまり社会性を失った、天宮真白《あまみや・ましろ》という少女。
 魔術の中でも、特に先鋭化した学派である《デジタル魔術》、其の使い手の妹を持つ高嶺弦義《たかみね・つるぎ》という少年。
 とはいえ、彼らの認知する"特別"は、あくまで閉じた領域のもの。
 外界の裏側に氾濫した其れを、彼らは知らなかった。
 だから私は、彼らに其れを実感させる為の最も手っ取り早い方法として、特異能力を実行してみせたのだ。

 あの時は、《虚数剣(アイ・ブレード)》を呼び出した。
 それは、単純な構造の論理武装。適用した空間に作用して、虚数値を入力する概念。
 虚数値を入力された事象は正しい性質を崩壊させ、一瞬のうちにマイナスの存在値を持つものに変異する。
 そして世界が損壊部分を埋めて修正しようとする効果が働き、虚数剣の描いた断線に向かって内向きのエネルギーが発生する。
 重要なのは、その断線の幅がほぼ0である事だ。これにより、世界に傷跡を残す事無く、対象に損害を与えられる。
 幅の無い斬撃である其れを、私は剣に例えた。故に、虚数剣。
 あの程度の論理武装なら、全力であれば、発声によって集中せずとも処理タスクを割り当てる事によって、論理武装の行使プロセスをミリ秒単位で処理できる。

 今回はどうしたものか。
 そもそも私の本分は、実のところは次元操作術式《演算》であって、論理武装の行使ではない。
 武器の事は誰よりも知っているが、自身で武器を扱うのは得意としない、そういう感覚だ。
 それ故、例えば背理の使用する理想剣を私が使用しても、同じように扱う事は出来ないのだ。
 今日は、その本分でデモンストレーションを行おう。

 私は、64個まで並列処理できる思考領域のうちの二つを割いて、空間の性質を捻じ曲げ、私の《演算》が適用される様にした。
 そして、テーブルの上に置いてあるペンに意識を向けた。私が筆記の為、使っていたものだ。
「天上さん、そこにあるペンを見て」
 視線を誘導する。
――変位《デルタエックス》。
 《演算》の基本コマンドの1つを起動し、思考タスクの一つ――尤も、一思考タスクの処理限界の20%も必要としないコマンドだが――を割り当てる。
 パラメータを入力。そして、ステートメントの処理。
 果たしてペンは、テーブルの端から端まで、どの軸において回転する事も無く、移動した。

 オブジェクト移動コマンド、変位。
 指定した移動ベクトル量を、指定した時間だけ適用する。
 元々は、私の師とも言える、とある魔術師が持っていた空間作用装置《線形剣(リニアブレード)》を解析して、其の機能を私の術式として取り込んだものだ。
 コマンドの命名も、彼女の趣味によるもの。
 私は、あまり相応しい名前であるとは思わないのだが、一方で、明確な識別子が存在したほうが管理しやすいので、そのまま用いている。

 これもやはりと言うべきか、ペンが動いたのを見て、天上さんは驚愕の表情を見せている。
 変位を適用し、ペンを私の手許に移動させて掴む。
 そして再度変位を適用。
 机の中心辺りの空中に移動させたところで、拘束状態から解放する。
 ペンは通常の物理法則を取り戻し、音を立てて机に落ち、転がっていき、ついには畳の上に落ちた。
「本当に、超能力なの……?」
 天上さんが、恐る恐る問い質す。
「ええ。まあ、普段は"超能力"なんて表現の仕方をしないのだけれど」
 便宜上、この力をそう呼んだだけ。
「何もそれらしいものがない事は見れば分かると思うけど、勿論、小細工なんて存在しない。あなた達にとっては未知の原理でコントロールしている」
 そして重要なのは、単に"超能力"が実在するというところではない。
「天上さん、あなたにも、この様な力があるの」
 私が其の事実を示したとほぼ同時。
 天上さんが、自らの立つ世界が変わるであろう事実を聞いて、何らかの反応を見せる事は無かった。
 
 彼女は突然、頭を抱えて苦しみ始めたのだ。
「痛っ……痛い……!」
 立つ事も出来ず、倒れ込む。
「あ、頭が……!」
 私は急いで彼女の頭に軽く触れ、沈痛の"魔術"を解く。
 対象の反応を見ずとも、私には状況解析、修正が出来る。となれば、苦しみを感じさせる必要は無いのだ。
 しかし、そんな行動も虚しく、天上さんは気を失ってしまった。
 痛みに因るものでないのは明白であった。
 何も焦る事は無い。
 死亡を覆すのは容易ではないが、逆に、死亡していないのならばどうにでもなる。
 目覚める前に解析を済ませよう。


  • 最終更新:2015-09-29 03:45:46

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード