1.《東岸》

 ぐ後ろでは、俺の住んでいた屋敷が燃え盛っていた。
 屋敷だけじゃない。
 周囲全てが炎に包まれている。
 だけど実のところ、そんな事は俺にとっては割かしどうでもよくて、単に俺と今対峙している"アイツ"にしては、珍しくやり方が派手だと思うだけだ。
 やろうと思えば、俺らの隙を突いて一瞬で抹消できたのに。
 もしかするとこれは、家族としての最後の慈悲ってやつで、俺は抵抗するチャンスを与えられたのかもしれない。
 俺は結局、アイツの事なんか何も分からなかったから、何も断言できることはないが。
 だったらそのチャンスに乗っかるだけだ。
 少しだけ、後ろを向いた視線を下げて、地に伏した女を見る。コイツの生死を確認する勇気なんてないし、必要もない。
 柄にもないことだが、俺は、コイツのお陰で初めて、他人を守りたいだなんて思えた。そして今もその為にここに立って、退けなければならない相手と対峙している。
 しかし俺は、目の前に立ちはだかる、今までの人生で最悪の現実――俺の勝率が0パーセントであること――も見ずに"惚れた女を守る"なんてほざくほどには馬鹿じゃない。
 今の俺が出来ること、することは、何も救えない屑の自己満足でしかないのだ。
 だからせめて、気持ち良く陶酔くらいさせてくれ。
「なあ、姉貴」
 前を向き直し、アイツの事を呼んだ。
「ええ」
 心なしかアイツは歯噛みしているように見えたが、多分気のせいだろう。
 俺のやることは変わらない。
「全力でブッ殺してくれ」
「……あなたがそう望むなら」
 別に望んでるワケじゃないんだけどな。
 姉貴、あんたは本当にふざけたヤツで、何度も怒りを抑えられなくなったが、嫌いだったかと言われたら、そうでもない。出来れば戦いたくなんかないさ。
 妹のアイツだってそうだ。
 お前らに振り回されるのはうんざりだったが、だからって此れは無いだろう。
 それに何より、後ろで寝てるコイツの事だってもっとよく知りたかった。
 やれやれ。お前が寝てるから、無理してカッコつける気力も起きないんだよ。



1.《東岸》

【東岸合理《とうぎし・ごうり》】

 は、自らが東岸合理という名前で生まれてしまったことを恨んでいる。
 何故ならば、《名称》はこの世に於いて、絶対的な意味を持つからだ。
 それが存在するが故に、それを付与されたものは存在として識別される。
 即ち、名称は価値である。
 そのものが持っているべき価値である。

 「さっさと起きろ、兄貴」
 そんな、苛立ちに満ち溢れた声と、その声の主の強烈な打撃攻撃によって、俺は目覚めた。
 痛いだろ、なにしてくれるんだ。
 目を開ける。
 先ほどベッドの脇から俺を殴ったであろう、茶髪をセミロングで揃えた女。俺の、最愛にして最悪最凶の妹、東岸背理《とうぎし・はいり》だ。
 朝っぱらからこんな調子であることより明らかだが、コイツは俺に対して非常に攻撃的なのだ。
――まあ、その方が痛めつける甲斐があって良いんだが。
 目下、腹をぶん殴って嘔吐させたい女はコイツであるが、コイツと戦えば、俺の方が呼吸も出来ない程に嘔吐させられるので控えておこう。
 コイツ、色々あって、マジで"強い"からな。
 ところでこの妹、なんでいつもこう、朝は下着丸出しなんだ。
「いい加減パンツくらい隠蔽するようにしろ」
 無論、妹の下着姿なんて見て興奮する程、俺は優れてはいないが。
「は? 別に良いじゃん。家だし」
 これだから恥を知らない女は。コイツは本当に、嘔吐位はさせてやらないと。
 少しは"姉貴"を見習ってほしいもんだ。姉貴も変人ではあるが、下着くらいは隠すからな。
「で、この俺を叩き起こすという事は余程の案件なんだろうな?」
 俺は寝たいんだ。
 俺の妹であるコイツや、姉貴は朝きっかり4時に起きる。元々数字に煩い姉妹ではあるが、―自称―1ミリ秒の狂いもなくちょうど4時におめめをすっきりさせて、一体何の意味があるんだろう。
 一方、俺はコイツらみたく無駄に早起きはしない。
 時計を見ると、2013年6月3日午前6時。こんな早朝に起きて、まともに活動していられる程、俺は優れてはいないんだ。
 家を8時出れば、学校には十分間に合う。頼むから、可能な限り長く寝かせてほしい。
「本家第五世代最弱のあんたが、何偉そうに言ってんだ」
 キレる妹、背理。キレるといつも"これ"だ。
 何かにつけて、俺が東岸家直系だという事を口にする。
 これだから第五世代最強さんは面倒だ。
「そんなに家系が大事かねぇ」
「そりゃあ、私達が、掃いて捨てる程居る普通の人間なら別に良いけどさ。違うじゃん」
 俺がうっかり突っかかったのが悪いとはいえ、背理は一度説教を始めると、口を挟むことすら許さない。
 何度も聞かされた話だけど、黙って聞き流すか。
「私達は、世界に存在するあらゆる家系でも有数の"力"を持つ。何故かって、"東岸"という名前そのものが力を持っているから」
 名前の持つ力。
 コイツの言っている"力"とは決して社会的権力などではない。それこそライトノベルだか何だかによくありそうな、現実味のない才能だ。
 まあ俺はそんな非現実的な連中の中でも極まった奴を姉や妹に持ってしまったから、非現実すらもある程度は現実として受けて入れてしまっているが。
 しかし俺についてはというと、殆どその恩恵を受けることが出来なかったようだ。俺も姉貴や背理と同様に名前負けしない才能を持っていれば良かったものだが、個人差という名の理不尽に見舞われてしまった。
 要するに、俺はわりと凡人だ。
「東岸家っていうのは、"世界の主人公になる素質を持った者が生まれやすい"家系なんだよ」
 言っているのがコイツらじゃなかったら、"厨二病もいいところだ"と笑ってしまっただろう。
 本当に、コイツらじゃなかったなら。
「だから、出来損ないの兄貴なりに、主人公としての自覚を持ってほしいって思うよ」
 "主人公"、ね。
 背理曰く、人間は生まれる前から、一般的な生涯を送ることとなる"エキストラ"と、そういう連中と比べて圧倒的に波乱の多い生き方をする"主人公"の二種類のタイプに分けられるらしい。
 俺が主人公か。本当にそうだと良いけどな。もしそうなら、俺の視点で描かれる物語もあるんだろうよ。
 背理の話が終わったところで、俺は話を戻した。
「で、用事は?」
「とにかく居間に来て。詳細は定理姉が」
「分かったよ。起きれば良いんだろ、起きれば」
 何だか面倒くさいことになりそうだな。
 俺が、無理して起きなくちゃいけない程の事だったら良いが。

 俺達が住んでいる屋敷の、必要以上に広い居間には、一人の、長い黒髪を持った背の低い女が居た。
「今日は早いわね」
 こっちを見る事もせず、俺達に挨拶するのは、俺の姉貴、東岸定理《とうぎし・ていり》。
 こいつも一種の狂人だが、俺に実際的な被害を与えない分、背理よりはマシだ。
 実は東岸家の血筋では無いらしいのだが、卓越した能力がある故、背理にも認められている。
いや、"卓越した能力がある者が東岸家の養子になる"という点で、東岸という家系が持つ力とも言えるか。
「姉貴がコイツに起こさせたんだろ……」
 俺は背理の頭を撫でながら返すと、背理を撫でていた俺の左手が振り払われる。
「触らないで。《剣》を抜いても良いの?」
 《剣》。
 何も知らない一般人がその言葉を聞いて想像できるようなものを、この妹は持ってはいない。
 もしコイツが使うのがその程度の"剣"だったなら、俺は今すぐにでもこの女を伸していただろう。
 だが、違う。
 コイツの言う《剣》は、恐らくこの世界の何処を探してもこれ以上に凶悪なものが見つからない位には強力なものだ。
「それは勘弁してくれ。俺じゃ、お前は絶対に止められない」
「分かれば良いの。分かれば」
 したり顔の背理。可愛くない妹だ。それが良いんだけどな。
「茶番やってないで、早く入ってきなさい」
 ほら、姉貴にお叱りを受けたじゃないか。

 「さて、合理と背理を呼んだのは、他でもない。昨日の学校での出来事についてよ」
 定理の姉貴が話を切り出した。話している間にも姉貴はこちらを見ようともせず、机に向かって何らかの数学問題を解いている。
 並列思考《マルチプロセス》。
 姉貴や背理は、常人を卓越した思考能力を持っているが、その事によって実現されているのが、複数の物事を擬似的にではなく完全に同時に処理する能力だ。
 背理ですら四重思考《クアドラプルプロセス》が限界の中、姉貴は、平均的なサイズの問題なら、最大で同時に64個ほどに対して思考及び対処が可能である。
 この数字喰らいの女の脳は一体どんな構造をしているのか、気になるものだ。
 それにしても、"学校での出来事"?
 俺達は皆――故あって――市立櫻岡高等学校に通っている筈なのだが。どうやら俺の認識外にあった出来事の様だ。
「もしかしてあんた気づいてなかった? あんたのクラスで起こった出来事なんだけど?」
 背理が人を小馬鹿にするような顔で俺を小突く。止めろ、あんまりナメてると犯すぞ。
 それで、俺の居る2年A組で何があったっていうんだろう。
「2年A組25番、暮井明美《くれい・あけみ》。朝、彼女は学校に来ていたわ」
 姉貴の在籍クラスは2年E組。何故他クラスの、しかも取り立てて特徴が無いと思われる、単なる同級生の事を知っているのか。
 どうやら定理の姉貴は、リアルタイムで全生徒の出席状況を管理しているらしいのだ。
 本当にぶっ飛んでいる。
 だって暮井明美なんて奴、同じクラスである筈の俺は一切記憶にないのだ。
 正確には、そういう"名前"が存在した記憶はあるものの、それが何を示していたかという記憶が全くない。
 同じクラスの俺が知らない奴のことについて、よく知っているもんだ。
 まあ俺が同級生の大半について興味がないというのもあるが。
「それが午後3時50分12秒、突然彼女の反応が消えたの。私の識別結界を逃れる事は、"普通"不可能である筈なのに」
 識別結界。
 姉貴は学校に居るとき、常時それを展開することで、校内の状況を把握することができる。
 一般人にとっての非現実であり、俺達にとっての現実の一つだ。
 まあ俺はそういう力が実在することを知っているだけで、使える訳ではないのだが。
「姉貴、そりゃあ消滅したってことか?」
「ええ。それも、私の通常時の監視レベルにかからない、非物理的な方法で」
 理解は出来た。しかし、不思議な点がある。
 いくら姉貴の監視に引っかからないとはいえ、実際に消滅したなら、俺達の目で見たって分かる筈だ。
 さっき背理には"あんたのクラスなのに気付かなかったのか"と言われたが、本当に、何故気付かなかったのだろうか。
「とりあえず、その後私と背理で調査してみたのだけれど、特にこれといった痕跡等は見つからなかったわ」
 行動の速い人だ。俺は"調査に不向き"だから、その時招集しなかったのはそういう理由だろう。
 それに、背理も調査に参加したという事は、恐らく《剣》も使用されている。
 にも関わらず何も見つかっていないという事は、《剣》以上に高次元な何かが関与している事になる。
「とにかく今日学校に行ってからは、細心の注意を払うこと。合理も背理もね。いい?」
「でも、定理姉。バカ兄貴も、私も、調査とか監視とかは得意じゃないよ。感覚だけなら、私でも1クラス分は管理できるけど、私C組だし」
 いちいち癇に障る妹だ。今すぐにでも腹をぶん殴って嘔吐の刑に処したい位だ。そんな事をしたら、俺の腕が飛びそうだが。
「だから識別結界のレベルを上げる。思考占有率は高くなるけど仕方ないわ。私が問題の発生源を認識できれば《剣》が届く次元まで落しこめる。或いは合理が何とかしても良いけど」
 僅かに俺の方を見る姉貴。
 出来るならやらせてもらうさ。
 そしたらちょっとは背理が俺の事を見なおして、腹パンさせてくれるかもしれない。
「何そのエロい事考えてそうな目。私は最低の兄を持っちゃったよ」
 俺の視線から全てを察して、ドン引きする妹。
 お前には俺の気持ちなんか分かるまい。

 学校。
 "細心の注意"とは言われたが、俺には定理の姉貴みたいな能力は無いし、背理の様な人間離れした感覚力を持っている訳でもない。
 結局は、何かあるまでいつも通り過ごすだけだ。
「おはよう、東岸くん」
 何となしに窓の外を眺めつつホームルームの開始を待っている俺に話しかけてきたのは、隣の席のツインテール女、染井芳乃《そめい・よしの》。
 2年A組の級長であるコイツは、面倒見が良く、誰とも平等に接し、さらには美少女である、クラスの人気者だ。
 もし俺が普通の家庭に生まれていたなら、挨拶された事で"もしかして惚れられてる?"なんて勘違いして、好きになってしまいそうだ。
 だが俺はコイツに興味なんて無い。何故なら、背理の三百六十分の一も、嘔吐させたくならないからだ。
「ああ、うん」
 そんな風に適当に返すと、染井に惚れているであろう男子数名から、刺すような視線を受ける。
 これだから、ものを知らない連中は。
 背理の魅力の前には、この女なんて霞むのだが。
 コイツは、可愛すぎる。可愛くない背理こそ可愛いんだ。
 それに、こんな一般人を滅茶苦茶に犯して嘔吐させても、多分楽しくないだろう。
「今日、数学の課題の提出日だよね。私が課題受け取ったら番号言うから、名簿にマル付けてね」
 変態的な思考を、染井は容赦なく遮った。
 "課題の収集"は本来、俺一人でやらなきゃいけない仕事なんだが、毎度の様にコイツは手伝ってくれる。ありがたい事だ。
 なんとなく、染井から受け取った名簿を眺めてみる。
 クラスの人間に興味がないとはいえ、名前を見れば、おぼろげながらも顔位は思い浮かぶ。
 しかし、一つ、全く知らない名前があった。
"2年A組25番、暮井明美"。
 今朝、定理の姉貴の口から出た名前だ。
 やはり、その人間について思い当たる事が、何一切無い。
 一応、確認してみるか。
「なあ、染井」
「なに? 東岸くん」
「コイツ、誰か知ってるか?」
 俺は、件の名前を指差した。
「……えっと……あ、あれ?」
 染井も戸惑っている。
 人の良いコイツの事だ、同じクラスの人間について分からないなんて、あってはならない事だと考えているのだろう。
 はっきり"知らない"と言い切れない様だ。
「そ、その……ごめんなさい」
 何故俺に謝る。誰も悪くないだろうに。
 いや、此れを起こした原因が悪いか。
 考えられる可能性は幾つか存在する。だがまあ、俺が考えた所でどうにかなる訳じゃない。
 姉貴が"敵"の動きを掴むまで、俺は待ってるだけだ。
 俺は、決して優れた人間ではないからな。

 何事もなく授業が終わり、放課後となった。
 さて、昨日に事が起きたのは、この辺りの時間か。
 俺が何かを察知できる訳でもないし、姉貴の所にでも行くか。
 廊下を歩く。
 まだ放課後を迎えた直後だから、人で溢れている。
 姉貴は廊下で、窓にもたれかかっていた。
 彼女は俺に気付いたのか、軽く視線を寄越した。
 沢山の生徒とすれ違っていく。
 そして、俺の目の前、逆の方向に歩いていく男子生徒が、視界から消えた刹那。
 その男が消えたという事実に俺が気付くよりも速く、定理の姉貴は、感覚ではなく思考によって何かを捉え、"4階"を唱えた。

『Differentiate,Differentiate,Differentiate,Differentiate《落とせ、落とせ落とせ落とせ》――!』

 振り向いた俺は、虚空から突如出現した其れを見た。
 銀髪。綺麗な銀髪。
 顔は見えなかったが、幼い体型で、少女と分かった。
 小柄な定理の姉貴よりも小さい。
 この世のものとは思えない、其の可憐に過ぎる様相。直感的に、人の姿をしていようが"人ではない"と理解できた。
 色白の肌に、服装は白のワンピース。彼女から得た印象は、まるで白の花《エーデルワイス》の様であった。
「選別《ソーティング》は済ませたわ。追いかけて……!」
 選別《ソーティング》。定理姉貴の空間拘束術式。
 一定基準で拘束者と非拘束者を分類し、拘束者を一時的に別領域に移動させる。
 今回の基準は恐らく"存在強度"。尤も、俺の強度は凡人と比べてもそこまで高くないが。
 何にしても、部外者の生徒共が拘束されているならば話は簡単だ。
 拘束されている限り、俺の行動に巻き込まれて壊れる事もない。
 銀髪の少女は、壁に激突したりしている。上手く走れない様だ。
 恐らく、存在次元を三次元に落されて"壁抜け"が出来なくなった事に戸惑っているのだろう。
 さて。

 《練気》、俺は僅かの間だけ目を閉じ、体内の精神流を認識、そして固定化。
 《導気》、固定化された精神力を脚へ、足へ。
 《発力》、内外の境界に蓄積されたパワーを、外界に出力。

 足に強烈な推進力が掛かる。俺は転倒しないように廊下を駆け抜け、少女を追う。
 汎用格闘戦闘技術《斑鳩法》。
 俺が昔、2年ほど家出していたときの宿泊先に居た女に学んだ技術だ。
 まだ練度が高くないため、《練気》から《発力》という一連のプロセスを行うまで約1秒の時間が掛かってしまう。
 その点、俺の師だったロリ婆巨乳子持ち未亡人巫女は一瞬と掛からないのだから凄まじい。伊達に百五十年以上生きていない訳だ。
 俺はとにかく勢いに任せ、銀髪の少女に追突した。
「あ痛ぁっ!」
 ごろんごろんと転がる少女。少しやりすぎたか。
 俺はブレーキをかけて停止する。
 まるで如何わしい男のように、おもむろに倒れた少女に近づく。
 が、少女は突如、再起する。
「許さないもん!」
 叫び、勢いよく左腕を伸ばす。
 見た目のせいで油断しすぎた。反応し切れなかった。
 にも関わらず、その華奢な手に触れられて、俺の身に何かが起こる事は無かった。
 正確には、其の腕が斬り落とされていた。
「あ、ああああああああ、い、痛いいいい!!」
 叫ぶ。痛くないはずが無い。
 しかし、血も出ない。
 廊下の向こう側10m程遠くからゆっくりと歩いてくるのは、背理。
 まるで、認識できない《剣》でも持っているかのように手を握っている。
 勿論、単なる剣ならばそれ程の射程距離を持つ筈が無い。
《理想剣(ブレード・オブ・アイディアル)》。
 理想で出来た剣。
 矛盾を、事象Aと事象Bの拗れた関係であると捉えるならば、アレは関係そのものを断ち切る。故に矛盾を世界に容認させる力を持つ。
 少なくとも、この次元に存在していて、アレに勝てるものは存在しない。
 何故ならば、アレは"自らが勝てない相手"に"勝つ"という矛盾を容認させるからだ。
「ホントは手を出さないつもりだったんだよ。コレを出す必要も無さそうだったし。でもクズ兄が女の子の可愛さに感けて隙見せまくりだったからさぁ。まあ後は頑張ってよ」
 背理は、片手で軽くこめかみを押さえながらも、笑って言った。
 背理が、直接対決であれば定理姉貴すら凌ぐ根拠になる、《理想剣》。
 それは《論理武装》と呼ばれる、三次元的な感覚によって存在を捉えられないが故に思考によってコントロールする、高次元の存在だ。
 しかし背理の思考能力は姉貴に比べれば劣るため、《理想剣》が引き起こす高次空間情報の奔流に耐えられる時間はそう長くない。
 三次元を超越しているが故の情報量の多さに、脳がパンクしてしまうのだ。
「良い子だ。褒美に、後であんまり大きくない乳を揉んでやるから喜べ」
 無理をしてくれた背理に感謝して、俺も笑ってそう返してやった。
「いつか殺してやる!」
 冗談の通じない妹だ。
 いけない。つい目の前でのたうち回っている少女を蚊帳の外に置いて、茶番を繰り広げてしまったぞ。
 全部背理の所為だ。後で嘔吐させてやろう。
「こ、この……!」
 おや。
 少女が立ちあがる。強いものだ。
「お前も喰らって―――」
 言い終わる前、右腕を伸ばし終える前に、俺は軽く腰を落として、慎重に、少女の右腕に触れないように、背中まで打ち抜いてしまわないように、少女の腹部を殴打した。
 俺の師は、第二次世界大戦の最中で日本を守るために戦い、銃弾の飛び交う中、海を走って、敵国の上陸用舟艇が接舷する前に粉砕したりしたのだとか。
 あんな、乳以外の点で傍目には14歳位にしか見えない巫女のコスプレをしたツインテール女の、一体何処にそんな力があるのか。
 まあ東岸《ウチら》はともかく、あそこは女性優位の血筋だから、少女である――或いは、そう見える――ことが弱い理由にはならないんだが。
 とにかく、俺程度じゃあそこまでの力は出せないが、それでも素手で、平均的な防御力の人体を貫く事くらいは可能だ。
 だからただ殴るだけでも細心の注意を払う必要がある。
「おっ、おげぇっ!」
 えずく銀髪の少女。
「嘔吐しない……!」
 俺は驚いて、ついそれを口に出してしまった。
 実のところ、彼女に嘔吐させるのが目的だったのだが、血が出ないのと同じように、少女は胃液をぶちまける事もしなかった。
 背理が頭を抱えているのが見える。《理想剣》は解いた様なので、多分俺のせいだろう。
「いや、遊んでないで早く伸しなさいよ、変態」
 定理姉貴がキレている。キレる姉。小柄で幼児体型にも関わらず、背理より迫力がある。
 優秀で、今回も一般生徒の為に活動した姉貴だが、性格に問題が無い訳ではない。いつも冷めた態度を取ってはいるが、その実かなり短気で怒りっぽい女だ。むしろ、この数学馬鹿は、俺達第五世代で最も狂人と言っていい。数字を弄する為ならば、一週間不眠不休で活動できるんだからな。
 さすが、"意思を持った数式"なだけはある。
「ああ、すまん。つい」
 何にしても、今は十中八九俺が悪いので謝っておく。
 俺は、憎悪に顔を歪めている銀髪の少女を眺める。
 怒っているのか。
 でも仕方ないじゃないか。
 こっちだって、同級生によく分からない事をされたんだ。対処しない訳にもいかないだろう。
「すまんね。嘔吐させる以外の目的で、あんたみたいな女の子を殴るのは好きじゃないんだが」
 俺は、白い花の如き少女を、気絶させた。

 
 銀髪の少女を運搬するのは、何故か俺に任された。
 学外に、定理姉貴の選別《ソーティング》は掛かっていないから、通行人に不審そうな目で見られた。
 通報されたらどうするんだ、全く。視界情報の操作ぐらいしてくれよ。
 そんな愚痴を頭の中で喚きつつも、俺達は帰宅した。

「こんばんは」
 畳の上で正座している定理姉貴が、銀髪の少女に呼びかける。
 こうして一緒に座っているのを見ると、何とも小柄な二人だな。
 目を覚ます少女。
 知らないうちに、切断された腕が再生していたが、何も問題は無い。
 あんなに間近で姉貴の視界に捉えられれば、人間は勿論の事、その範疇を超えた存在でさえまともに行動できない。
 あの無表情の視線には、物理拘束、論理拘束、次元拘束の作用が含まれている。
 即ち、姉貴の認めない動作は出来ず、姉貴の認めないような動作を起こすための思考も出来ず、姉貴の許可しない限り、三次元から移動することも不可能。
 今すぐ上位次元に逃げようとしたって、無理な訳だ。
「な、なによ! そんな目でみないで!」
 幼い声で怒鳴る少女。
 此れ位の事なら慣れている姉貴は、尚も無表情。
「ねえ、あなたは何者?」
「……知らない」
 嘘をついているようには見えない。
 まあ、ガキっぽい見た目から何となくそう思っただけで、そういうのを見破るのが得意な訳ではないが。
 姉貴が、何かに納得したように頷いている。
「聞いても無駄みたいだから、直接解析するわ」
 呟いた途端、銀髪の少女が、消えた。
 姉貴が銀髪の少女に掛けた次元低下術式《微分》を解いたのか。
『Integrate,Integrate,Integrate,Integrate《積め、積め、積め、積め》』
 小声で素早く、"4重"を唱える姉貴。
 姉貴は即座に、俺の目で認識不可能な高次存在になった。
 恐らくは自分に対して次元上昇術式《積分》を行使したのであろう。
 しかし、それから1秒程経った後に、二人はすぐに、戻って来た。
「流石姉貴、速いな」
「313,810,113,862,762,389,925,665ステートメント。私の六万五千五百六十五分の一。かなり単純な構造よ。あなたにも解析できるんじゃないかしら」
「そうかよ」
 コイツ、人を何だと思ってやがる。俺はあんたみたいな、生きるスーパーコンピュータじゃないんだぞ。
 少し苛立ちを交えて反応してみたが、気にせず続ける姉貴。
「この子、《概念生物》ね」
 《概念生物》。
 背理の使う論理武装《理想剣》と、本質的には同種な存在。
 物質界を超越した高次存在である為に、其れを感覚する事はできない。思考によってのみ捉えることが出来るのだ。
 それら超越的な存在に対して様々な操作を行うのが、《微分》や《積分》をはじめとした、定理の姉貴が独自に編み出した次元操作術式《演算》。
 《理想剣》も《演算》も、背理や姉貴の卓越した思考性能が成せる技だ。
 一体コイツらの脳の1表面積あたりのスペックは、常人の何倍なのだろうか。
「性質は、そうね、《名称喰らい》とでも呼ぼうかしら」
「へえ……」
 姉貴の名付け癖が発動したので、俺は適当に頷いておく。
「左腕で対象の主観的名称を奪い、自身と他者の区別を曖昧にする。右腕で対象の客観的名称を奪い、第三者から見た、被害者と他者の境界を曖昧にする。そうやって名称の固定性を緩めた上で、右眼で見て咀嚼するの。名付けるなら、《主観の左腕》、《客観の右腕》、《解釈の右眼》といったところかしら」
 いつも思うが、別に名付けなくて良いのに。
 面倒くさがりの癖して、何かあると名付けずには居られない、姉貴の悪い癖だ。
「それで、犠牲者の名前を喰ってた訳か」
「ええ」
 道理で誰も暮井明美とかいう奴について知らない訳だ。
 恐らく、コイツに咀嚼されてしまえばもう元には戻らないだろう。
 犠牲者には気の毒だが、仕方が無い。
「お腹すいた」
 少女がお腹を押さえている。仕草だけなら、いかにも真っ当で可愛げのある少女みたいだ。
「さっき喰ったばかりだろ! 俺の名前ならあげても良いけどさ」
「馬鹿言わないで」
 冗談半分に言ってみたのだが、姉貴には真面目に返されてしまった。
 俺が自分の名前を嫌ってるのは姉貴も知っている筈だ。
 俺は東岸の出来損ないだ。論理武装だって行使《ディフィニション》出来ないし、高次存在へ作用する術式だって使用できない。
 三次元空間に留まっている俺なんて、姉貴や背理からしたら、カスみたいなものだ。
 それなのに、"俺が東岸本家の息子だから"という理由だけで、身の丈以上の重圧を与えてくる。
 酷い連中だ。こんな事なら、東岸本家じゃなくて分家に生まれたかったよ。
 分家の人間なら大して期待もされないだろうからな。
「冗談はおいといて、コイツどうするんだ?」
 まあ、今の問題はそれだ。俺の事情ではない。
「お兄ちゃん、わたしに食べさせてくれるの?」
「そりゃあ無理だ。そこの姉貴が何するか分からない」
 あと、今は頭痛で寝ている背理も。
「私としては、次元移動に制限を掛けて、エリアアウトさせたいところだけど」
 エリアアウト。すなわちこの世界からの追放。

 三次元と二次元を例にとってみよう。
 俺達は、二次元なるところに、様々な世界が存在するのはよく知っている。
 平和ボケした学生共がラブコメやってる世界もあれば、それぞれの人間が、社会を守る為に命を賭して殺しあっている世界もある。
 定理姉貴によれば、それは、上位次元――四次元から、全ての根源である次元、十一次元まで――から見た、此の世界《エリア》が存在する次元、即ち三次元も同じだという。
 だから、厄介な存在は、此の世から追い出せば良い。
 勿論俺にはそんな芸当は不可能だ。実行するのは、定理姉貴か背理。
「お腹すいた」
 尚も空腹を主張する少女。
「これでも食ってろ」
 俺は何となしに、机の上に置いてある煎餅を、コイツの口に突っ込んだ。
「あ、それ私の。まあいいけど」
 姉貴が何か言ってるが気にしない。
 ぼりぼりと、音を立てて咀嚼している少女。
「おいしい!」
「えっ」
 驚きだ。
 このガキ、普通に名前以外も食べられるのかよ。
「……姉貴、ちゃんと躾けるから、コイツ飼っても良いか?」
「勝手にしたら良いけど、何だか目つきがいやらしいわね」
 姉貴の、寸分の狂いもない、計算されつくした打撃攻撃によって、俺は嘔吐した。
 喉が焼ける痛みを感じながらも、わりと容赦のない姉貴にしては妙に優しい処遇をしたものだなと思っていた。
 姉貴は普段、この少女――エーデルワイスと名付けることにする――の様に、"この世界に存在するべきでないもの"を嫌う。
 何だかんだで俺のことを信頼してくれているのかもしれない。
 そして、殴られながらもそんな事を考えてしまっている俺は、きっといつまでもこの姉貴には頭が上がらない気がした。
 
 自室のベッドの中で、俺はいつものように無意味な考え事をしていた。
 エーデルワイス、アイツをどうしてやろうか。
 姉貴はおもちゃにすることを許してくれたが、何が物足りないかというと、エーデルワイスは嘔吐しないのだ。
 まあ何にしても、アイツが勝手に誰かの名前を喰わないように躾けておく必要はあるかもしれない。
 
 俺が今みたいな趣味――可愛いと思った女に殴打をかまして嘔吐させたくなる性的嗜好――になったのには、勿論ワケがある。
 俺はガキの頃から定理の姉貴や、同じ年に生まれた妹の背理と比較されてきた。
 当然だ。例えるならば、一般的な家庭で生まれた子供が超能力者であることと同じ位、俺が大した才能を持たずに生まれたことは、家の連中の想定外であったから。
 東岸は、その名が持つ"特別性を宿す力"を継承し、この社会の闇に潜んでいる"特別性"、即ち"常識あるいは一般性から外れたもの"を管理することを家訓としている。
 例えば、論理武装のような。
 他には、いわゆる《魔術》など。
 一般人の目からは隠されているが、そういったものが存在することを、実際に俺は今まで見てきている。
 だからこそ東岸の連中は、特別性を以て特別性を制することを目的に動いているのだ。
 そんな家系で俺みたいな無能が生まれたんだから、両親の恨みを買うのもまあ理解できなくはない――納得はしないが。
 姉貴や背理は何だかんだ言っても俺の存在を許してくれてはいたようだが両親はそうもいかず、ある日とうとうアイツらも俺みたいな奴を家に置いておくのが嫌になって、棄てたのだ。
 その時はこう思ったさ、"いつか見返してやる"って。
 そんな俺の意志が伝わったのか、あるいは単に悪運が強かったのか、俺は神領烈花《じんりょう・れっか》という女に拾われた。
 ソイツらはまあ東岸と似たような連中で――明確に"脅威を排除して日本を守る"という思想を持っている辺りは俺達とは違うが――、俺はソイツらから斑鳩法を学んだ。
 それで修行し始めた頃は、一緒に修行していた神領神奈《じんりょう・かな》という、俺と同い年であり烈花の曾孫らしい女との練習試合で全く勝てなかったのだが、ある日、アイツの腹に一撃を入れることが出来た。その時、良い具合に打撃が入ったようで、アイツは嘔吐してしまった。
 どうやらその時の快感が癖になって、今のような趣味になったみたいだ。
 その後、俺は東岸家に戻ったのだが、両親も姉貴も背理も相変らずだった。
 アイツらにとっては結局、斑鳩法を多少知った程度の俺なんて特別でもなんでもなかったワケだ。
 それからは、何となく家庭の中で生活し、親や背理の煩い文句に胃を痛めながら、定理の姉貴に良いように使われたりしている。
 姉貴は忠実に東岸の家訓に従っているし、背理も正義感の塊みたいな奴だが、俺にとってはどうでもいい事ばかりだ。
 手にした半端ものの力の使い道も分かっていない。
――いけないな。
 昔のことを思い出して、ついネガティブになってしまった。
 もともとポジティブなほうではないので、無意味な回顧は止そう。そういうのは思考の悪循環を生む。
 目的なんて無くていい。俺はこのまま鬱陶しい奴らに振り回されていればいい。
 自ら選んで行動する者は、相応の責任を負うことになるのだから。


  • 最終更新:2015-09-29 03:45:03

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