4.《供道輪廻》

4.《供道輪廻》

【供道輪廻《くどう・りんね》】

 から私は、"死"というものに魅入られていた節があった。
 誰にも触れられない、誰も私に触れようとしない。私は一人。
 でも、死はいつも、私の傍に居てくれるから。
 だけれど、これまでのそういった自分は本当に愚かだったと、今なら思える。
 死は、苦しくて、痛くて、寂しいものだ。
 痛い、痛い、痛いよ。
 まともに立つことも出来ず、壁伝いに何とか歩みを進める。
 それでももはや、黙って耐え凌ぐことが出来ない程に、"其れ"は悪化していた。
 元々、心が強いほうではないけれど。
 路地裏の向こうに見えるのは、二人の人影。じっと奥を見つめると、一人は髪の長い女性であることが分かった。
 最悪の記憶を頼りに、ゆっくりと、しかし出来るだけ速く歩いていく。
 記憶が思い出されるたびに、四肢がじりじりと消滅していき、やがて内臓、そして意識そのものが消滅する感覚も想起される。
 神経が通っては消え、通っては消える。そんな気持ち悪い感覚の繰り返しに吐き気を催し、声をあげて嘔吐した。
「ん? 誰か居るのか?」
 奥から声が聞こえてくる。よく見えなかったが、もう一人は男性であった。
 不審に思ったのか、こちらに寄ってくる男性。しかし私はそちらには用事がない。用があるのは、男の人に続いて来た女性の方だ。
 やがて、姿を視認できる程の距離まで近づいた。茶髪で化粧が濃い女の人と、体格の良い男の人。
「なんだ、お嬢ちゃん。こんな時間にこんなところ歩いてたら危ないよ? それとも、もしかして、これが欲しいのか?」
 男の人は私にそう言うと、ポケットから何らかの錠剤を取り出す。
 何か、勘違いされてしまったようだ。私はそんなものに興味は無い。だって、そんなものが私を救ってくれるだなんて、微塵にも思えないもの。
 私は男性の方には目もくれず、女性に声を掛けた。
「そ、その……私を助けてください。痛くて、苦しくて、もう耐えられないんです」
「無視かよ……そっちの知り合いか? どこか悪いみたいだが」
 男性が少し不機嫌そうな顔をして、女性の方に問うた。
「え、いや、知らないけど。知らないヤツを助ける義理とか別に無いし」
「助けてくれないんですか……?」
「いや、だから何であたしなんだっつの。買うもん買ったしあたしもう帰るから」
「待ってください……!」
 手を伸ばすも、叩かれてしまった。
 この人は、本当に私の事を知らないのだろうか。当ては外れてしまったのだろうか。
 けれども、私が持つあまりに遠すぎる記憶は鮮明さに欠けていて、明確な手掛りになるような要素が少ない。
 きっと、全てを思い出そうとした瞬間、私はこれ以上にない位の苦痛を味わうことになるだろう。
 嫌だよ。苦しいのは嫌。生きながらにして何度も何度も死ぬのは嫌。だから、私を助けて。
「お嬢ちゃん、体調悪いのかい? だったら尚更この薬を飲むべきだよ。楽になれるよ?」
 違う、違うのだ。あなたではきっと、どうしようもない。
 そうだ、もしかするとこの女の人は、忘れているだけなのかもしれない。私だって、最近まで全てを忘れていたのだから。
 ならば試しに痛めつけてみよう。"あの日"の地獄を再現できるほどはものを覚えてはいないけれど、人ひとりを私と同じように苦しませること位は容易い。
 女の人が、私に背を向けて踵を返していく。
 私は、長いというには永過ぎる記憶を辿って、無数にある既知の"人を傷つける方法"の一つを想起した。
「10、22、9」
 小声で数字を呟く。その意味を、私は"覚えている"。
 突如、コンクリートを砕いて、1mほどの長さの、無数の細い杭が地面から飛び出した。
 そして、その一つが女性の脚を貫いた。
 耳を劈くような絶叫が響く。それでも、今が深夜1時ほどであるという事からか、二人以外の誰かがこの場に寄ってくる様子はない。
「な、なんだこれ!」
 男の人が混乱しているのを余所に、動けなくなっている女性の方にゆらりと近づいていく。
「思い出してくれましたか……? 早く私を解放してください」
「知らないって言ってるじゃん! それより助けてよぉ……!」
 みっともなく涙と汗と鼻水を垂らして、痛みに苦しむ女性。私と同じくらいに、弱々しかった。
「おい、てめぇは何なんだよ……イカレてやがる……!」
 それは私の事なのだろうか。何について言っているのかは分からないけれど、私の精神が狂っているのかという話ならば、確かにそうだ。
 でもそれは、私の所為じゃない。私と同じ状況になって正気を保てる人間なんて、きっとそんなには居ない。
 しかし、どうしても女性は、私を助けてくれる気にはなれないらしい。
 "諦めて他を当たる"という発想が一瞬の間だけ湧き上がってきたけれども、別の考えがすぐにそれを否定した。
 もしかすると、件の記憶における"あの女性"は、私を救ってくれる人どころか、私が苦しむように仕向けた人なのかもしれない。
 あの人は私を助けることなんかせずに、私の体と意識が消滅するのを黙って見ていたのだ。あの人が原因でもおかしくはない。
 それなら、どうすればいいか。
 飽くまで知らないと言い張るのならば、私のすべき事は一つ。
 亡くなってもらうしかないんじゃないのかな。
「10、22、9、18、7、14、6」
 私は七つの数値を"詠唱"した後、視線にありたっけの殺意を込めて、女性に叩きつける。
 瞬間、血液と肉片がぶつかるのを感じた。女性の体が破裂したのだ。
 しかしまだ、幾つかの大きな塊が残っている。
「86、86、86、86……」
 私はそれらの塊を全て、視線によってすり潰していく。一つでも肉塊が残っていれば、それが私を痛めつける原因になっているかもしれないから。
 しかしそれでも、私の苦痛の記憶は、頭の中を駆け巡っている。
 どうやら、全くの見当違いだったみたい。さっきの人は、私を助けることも、私を苦しませることも無かった様だ。
 後ろを見ると、男性が腰を抜かしていた。別にそちらを如何こうする必要性は私にはないんだから、そんなに怯えなくてもいいのに。
 私は、記憶を頼りに用いた魔術によって服から汚れを弾いた後、一旦帰宅することにした。
 少しだけ、記憶による蝕みが収まってきたのだ。どうやらこれは周期性のある現象のようで、また数時間後には同じ苦しみを味わうことになるのだろうが、とりあえず休める時には休んでおきたい。
 もう、疲れた。私、自分を殺すような気力も勇気もないよ。だから人を殺した。
 他の誰かを殺すことって、案外なんでもない事なんだなと思ったのは、今の私が狂っているからだと思いたかった。

【東岸合理】

 定理の姉貴が天上に対して、世界の形とアイツの今の状況について説明した後、姉貴は天上の身に宿った特異に"処置"を施した。
 姉貴にとっても相当デリケートな作業だったらしく、三時間ほど掛かった後に、天上が持っていなければならない方の特異は復元され、そうでない方の特異は侵蝕を停止させられた。
 姉貴はそれを消滅させることも出来たらしいが、あえて消滅させなかったのは、"いつでも元の状態に戻せるのだから私に逆らわないほうがいい"という脅迫の意味合いらしい。
 まあ俺には特異が在るか無いかなんて事は分からないから、実際のところ、それが天上の中でどのようになっているかは判りかねるが。
 なお、途中で大人しくしているのに飽きたエーデルワイスは、姉貴の怒りを買ってしまい、背理の下に追放された。
 俺はとりあえず定理の姉貴を信じてその場を立ち去り、エーデルワイスの様子を見に行ったのだが、アイツは背理に服をひん剥かれて辱めを受けており、背理が女好きであったことと、人間――生物学的な意味に留まらず、精神的な意味でアイツが人間と認めた相手――以外には容赦しないことを思い出すのであった。
 姉貴の作業が終わった後の天上の帰宅には、姉貴の命により、またもや俺が付き添うことになった。あの姉貴の指示というのは癪だが、実際のところ、天上にとっての夜道はあまり快いものではないだろうから、天上に付き合うことそのものは吝かではなかったが。

 そして、その翌日。
「おはよう、合理君」
 ベッドの脇の方から、俺の名を呼ぶ声が聞こえる。打撃が加えられない辺り、背理でもエーデルワイスでもないだろう。
 ちなみに、エーデルワイスは俺のペットなので、元々は俺の部屋で寝かすつもりだったのだが、背理が"あんたみたいなのと幼女を一緒の部屋で寝かせるのは不健全だ"とか言って、結局アイツの部屋で寝ることになってしまった。実際のところは背理がアイツをおもちゃにしたいだけだろうから、ストレス抱えてどうにかならないか心配だ。
 いや、そんな事よりだ。この声の主は。
「て、天上!?」
 何故か天上のヤツが俺の部屋に来て、俺を待っているという事実に気が付き、俺は飛び起きた。
 学生服を着た女が、少し恥ずかしそうに頬を赤らめて、俺が起きるのを待っていたのだ。
 おいおい、"ある日ひょんな事から、今まで全く繋がりのなかった女の子と急接近"ってか。
 何だ、もしかして概念境界が崩壊して、俺の知っているこの世界のジャンルがぶっ壊れてラブコメディにでもなっちまったのか?
「どうしたんだよ、朝から。なんかあったのか?」
 とりあえず事情を聞いてみる。とはいえ、切羽詰ったような表情はしていないことから、何かしらの問題が発生したという訳でもないのだろうが。
「あー、えっと、その、これから色々あるだろうし、今からでも出来るだけ仲良くなっておくべきかなって、それでね。別に登校はいつも一人だったし」
「お、おう。そうなのか」
 だからって、こんな幼馴染だか恋人だかみたいな真似はしなくていいと思うんだが。
 勿論、背理やエーデルワイスに小突かれて起きるよりは余程に目覚めが良いので、悪い気はしないが。
 とりあえず、着替えるかと思い、俺は敢えて天上に何も言わずに寝間着を脱ぎ始めた。
 すると案の定、天上はさらに赤面して、急いで部屋から出て行った。
 一応、この前のやり返しのつもりだ。女であるアイツの場合は、恥ずかしいというよりは単に男の裸なんて見たくないと思っているのかも知れないが。
 一人になった部屋で制服を着始めてから、あんな事があった直後の女の子にそういう事を考える辺り、"俺はなんて無神経な野郎なんだろう"と、少し反省した。
それにしても、"出来るだけ仲良く"、か。
 それ自体は、俺にとっても願ったり叶ったりという感じだ。
 実のところ、背理はどちらかと言えば、自分のみに信念に従って好き勝手に行動するヤツであり、姉貴に従うかどうかはその時のケースに因ることが多い。
 だから、本家に住む連中の中で主に姉貴に使われるのは俺なのだ。そして、これからは天上も俺と一緒に、何かしらの特異等に対処する羽目になるだろう。
 友好を深められるなら、それに越したことは無いのだ。
 しかし、いざそうしようと思っても、どの様に接するべきなのか分からない。
 今まで俺は、同級生の連中と仲良くなろうだなんて全く考えたことが無かったしその必要も無かったから、いつも適当にやり過ごしていた。おまけに妹も姉もあんなのだし、家出先で一緒に生活していた女も、ごく一般的な人間とは言い難かった。
 まともな女が何を考えてるかなんて、分かる訳が無い。
 とはいえ、そもそも天上の性格が真っ当であるかどうかなんて、俺には分からないのだが。少なくとも行動を見た感じでは、"どこかズレている"という印象が否めない。
 今朝の行動然り、アイツは妙に前向きすぎると、俺は感じている。学校における今までのイメージは、どちらかといえば大人しい方だと思っていたのだが。
 何か意図があっての事だろうが、そんなものは俺には汲み取れないし、そもそもアイツの身の回りに起こったことを考えれば、精神を衰弱させたり、混乱に陥ってもおかしくはない。
 それなのに今のような態度を取れる辺り、アイツの図太さは特異と言っていいレベルなのかもしれない。
 まあ何にしても、天上の方は積極的な様だし、アイツとの関係については、なるようになるしか無いだろうな。

「すまん、待たせちまったな」
 俺は、着替えなど諸々の身支度をさっさと済ませた後、廊下で待たせっぱなしであった天上に声をかけた。居間にでも居てもらったほうが良かったかもしれないな。
「気にしないで。私がお邪魔させてもらってる方なんだし」
 これといって愛想を繕うこともなく、至って平静な顔で答える天上。
 そういえばコイツの笑顔、見たこと無いな。ちょっと見てみたいかもしれない。
「朝飯は? まだならウチで食ってくか?」
 天上の自宅はここから10分ほどだが、既に着替えてここに来ている辺り、朝食をまだ摂っていないかもしれないので、一応聞いてみる。
「うん、そうする」
 予想通り、まだだったみたいだ。
 今日の食事担当は定理の姉貴だが、"マズい"という事はないので大丈夫だろう。
 献立を考えるのを面倒くさがってよく同じものを出す上に、味が安定的すぎて、同じ料理は常にレシピ通りの一定の味しかしないという欠点はあるが。
 一番料理が得意なのは背理のヤツなので、当番製にせず、ずっとアイツに飯を作らせれば良いのにと常々思っている。

 居間に行くと、既に姉貴は配膳を終え、畳の上に紙を広げて数式らしきものを書き連ねている一方、背理は苦しそうな顔をしているエーデルワイスを抱きしめながら、ぼーっとテレビを眺めていた。
 俺達に気づくや否や、姉貴は弄していたものを放置し、正座して机についた。
「おはよう」
 視線は俺に向いている。既に天上とは会ったのだろう。
「はやく来てよ。エーデルワイスちゃんお腹空かせてるじゃん」
 以前、エーデルワイスを抱いたままの背理は、苛々は様子であったが、いつもの事だ。なぜこちらがあんたらに付き合って早起きせねばならんのだ。
「はなせー! はなせー!」
 エーデルワイスが手足をじたばたさせて暴れている。食器等にぶつかったら危ないから止めさせろよ、背理。姉貴に怒られるぞ。
「ほら、合理がいつまでも寝ているから、あなたのペットがお腹を空かせているじゃない」
「俺の所為かよ、姉貴」
「違うの?」
「違う……いや、そんな事はどうでもいいんだよ。天上も居ることだし早く食べようぜ」
 姉貴による責任の追求を退け、俺と、俺達の茶番を見て僅かに微笑んだ天上も机について、食事を始めた。
 何だ、ちゃんと笑えるじゃないか。
 姉貴の作った、いつも同じ味しかしない味噌汁を啜っていると、その姉貴が唐突に言葉を発した。
「ちなみに、実は天上さんを誘ったのは私よ」
 あんたの差し金だったのかよ!
 思わず口の中に含んでいるものを吹きかけたが、そんなことをすればまた俺が嘔吐させられる羽目になり、惨めに掃除をすることになるので、すんでの所で思いとどまった。
「あなた達には早速友好を深めてもらいたいと思っただけで、別に他意はないわ。天上さんも嫌じゃないみたいだし」
 俺は一旦、持っている食器を置いて、真相を問い質す。
「で、何を企んでるんだ?」
「他意はないと言ったでしょう。あなたは自分の姉を信用できないのかしら」
「あんたみたいな姉は信用できねーっての」
 さすがに普通の姉だったら、俺だって信用するさ。でも姉貴は、怪しさの塊みたいな存在じゃないか。
「こればっかりは本当なのだけれど。ねえ、天上さん?」
 姉貴、そっちに話を振るか。
「うん。別に私と合理君が、その……仲良くなったからって、悪いことがあるわけじゃないし、ね?」
「お、おう。そうだな、多分」
 確かにそれはそうだが、それでもやはり姉貴はどこか信用できない。
 それにしてもこの女、もはやこの空気に順応してやがる。やはり天上は普通の精神を持った女子高生ではないのだろうか。
 俺に対する好感度もやけに高い気がするし、本当に分からないヤツだ。何で"仲良くなれる"というのが前提になってるんだよ。俺が拒絶するだとかそういう事は考えないのか。そんなことする必要は別にないから、しないけどさ。
「ほらほら、エーデルワイスちゃん、あーんして、あーん」
 一方背理は、エーデルワイスに飯を食わせてやっていた。
「やめろー!」
 口では文句を言いつつも食欲に負け、口の中に突っ込まれた食べ物を咀嚼して飲み込んでいる。
 アイツは箸が使えないからこうなるのは仕方が無いとはいえ、背理は明らかに、自分の楽しみの為にやっている。
 もう、アイツのもので良いんじゃないかな。エーデルワイス本人は嫌がっているが。
「合理君の家族って、面白いね」
 天上がふと、そんな事を言った。
「そうか? 俺なんて一度家出した位だから、そうは思わんが」
「家出してたの?」
 家出というか、早くに出勤しており今この場には居ない両親に追い出されただけなんだが。
「ああ。俺はそこに居る姉貴や背理と違って能無しだから、居辛かったんだよ。今じゃわりかし慣れてきてるが」
「そうなんだ……なんか、ごめんね」
 いけないな。少し心中を吐露しすぎて、天上の顔を曇らせてしまった。
「別にあんたの所為じゃねぇよ。謝らなくていいから」
「そうだよ。悪いのはダメダメな兄貴だから!」
 背理が話に首を突っ込んでくる。なんか、コイツに言われるとやはり、物凄く腹が立つ。
 しかし実際背理は優秀すぎて、俺なんかじゃ反論のしようが無い訳だが。
 クソ、出来る事なら問答無用で殴り倒して滅茶苦茶にしてやりたい。
「さすがにそれは言いすぎだと思うけど……」
 天上が俺を庇ってくれた。ありがたいことだが、背理の扱いにはもう慣れているので、そんなに深刻になってもらう必要はない。
「そっか。うん、まあいいや」
 天上に指摘され、あっさり引き下がる背理。コイツ、女には弱いからな。勿論、"誰でも"という訳ではないが。
 色々と雑談をしつつ食事をしていると、テレビで気になるニュースが流れた。
「櫻岡市の路地裏で女性が死亡……ってあれ、かなり近くじゃん。麻薬中毒者の女が木っ端微塵になってたんだってさ。現場を見てた人は居たらしいけどよく覚えていないとか。記憶力無いなぁ」
 背理が、この街で起きたらしい出来事について、別段なんでもなさそうな顔でコメントした。
 ん、待てよ。"麻薬中毒者の女が木っ端微塵"?
 俺は長机の反対側から背理を見た。背理の横に座っている姉貴も横目でアイツを見た。その意図が分からず、あちこち見回す天上とエーデルワイス。
 恐らく、今まで普通の生活しかしてこなかった者には、これが事件が事故かの判別もつかないと思われる。
 しかし、俺や姉貴、そして多分背理にも、ニュースで流れた出来事から、事件性を見出すことが出来ただろう。
「え、もしかして私がやったと思われてる? "今回は"違うってば!」
 驚いたような顔で釈明する背理。
「違うの。それなら良いけれど」
 背理の主張を信じて、すぐに食事に戻る姉貴。
「"今回は"……?」
 しかし背理の事を、ひいては俺達が何者であるかをまだよく分かっていない天上は、そこに疑念を抱かずには居られなかったようだ。
 そして疑念は警戒心へと変わり、アイツは険しい顔をして、立ち上がりつつ背理との距離を置いた。
「天上、コイツの事はそんなに警戒しなくていい。コイツは別に、無差別に殺しているワケじゃない。だからって俺が納得してるワケでもないが」
「だってその、つまり、どんな事情であれ、その、よく分からない力を使って、今まで殺人をしたことがあるっていう事でしょ……? なんで平然としていられるの……!?」
 天上が声を荒らげた。どうやら話の流れで、件の出来事が、事故ではなく殺人だと予想できたらしい。
 そういえば、背理がどんなヤツか、コイツにはまだ何も話していなかったな。
「背理のヤツにとってはな、人間という存在の価値を下げるような連中は、間引く対象でしかないんだよ。だからコイツは犯罪者を殺すことに躊躇いがないし、そうすることで自分が犯罪者になるという認識も持っていない。法律も常識も何もかも、コイツを縛れないからな。悪いことは言わないから、俺はともかく、コイツと、それに姉貴は同じ人間だとは思わないほうがいい」
「そんなの、おかしいって……!」
 そう、だよな。天上の身になって考えてみれば、そういう反応になるのも無理はない。
 俺は天上について、"もしかしたら普通の感性を持っていないんじゃないか"と思っているし、実際にその傾向はあると思う。しかしそれにも限度というものがあるだろう。
 今まで一般的な常識の中で生活していた人間が、どんな事情であれ殺人行為を容認できる筈もない。
 そして背理が自身の行動を"殺人"だとは思っておらず、また、そんな認識を持つのを自分自身に許している事を、天上には理解できないだろう。
 そんな天上の糾弾に対して背理は、普段俺と下らない口喧嘩をしている時とは打って変わって、真剣な表情で答えた。
「"おかしい"って、確かに天上ちゃんの言う通り、私達はおかしいんだよ。でもそれは、例えば"頭がイカれている"だとか、そういうおかしさじゃない。実際に私達は特別なんだから、普通の常識で推し量ること自体が誤っている。むしろ特別なもの、即ち"力"を有するものは、それ相応に振舞わなければいけない。自らの特別性に伴う責任を放棄して何ら行動しないなんてそんな事は、神にでもやらせておけばいい」
 神ですら見下したような、尊大な物言いだった。否、実際にコイツは、一般的に"神"と呼ばれる概念を軽んじているのだろう。
 神がこの世界を支配するものであるならば、背理や定理の姉貴は、この世界を越えた者。コイツらにしか許されない思考だな。
 しかし、背理がそういった主張をするとき、――理由など知る由も無いが――決まって姉貴は、普段あまり変化しない表情を僅かに歪めるのである。
「天上ちゃん、あんたも同じだよ。今はまだ実感してないと思うけど、あんたはもはや、自分が今までと同じ世界に立ってはいない事を理解するべきだ。分かるかい?」
 背理がそう続けた。
 背理は、ソイツが常識的な一般人である限りにおいて守ったりはするが、一度"こちら側"に来てしまえば、その意志に関係なく、思考をこちら側へシフトさせるべきだと考えているのだろう。
 それは俺に対する態度からも明らかだ。
「それは、私に"人を殺せ"ってこと?」
「具体的にどうするかを決めるのはあんただよ。天上ちゃんの持つ特異がどんなものかは知らないけどさ、あんた自身がそうするのが正しいと思ったなら、そうするべきなんじゃないかな」
「それを正しいだなんて思える事がまず有り得ないよ……」
 天上は俯いて、なおも否定した。背理の、対象によっては殺人をも善とする思想を、断固として拒絶する様だ。
 それはどこか、自分に向けて言っているようにも感じられた。
 天上は恐らく、人を殺してしまった。もはやその痕跡も消えてしまったが、それでも自分が行ってしまった事を罪とするかどうかで、酷く葛藤しているのかもしれない。
 少しの間、何かを思案するように唸っていた背理が、口を開いた。
「例えばさ、ある一人の殺人鬼が居るとする。それでソイツが死ななければ、数分後には必ず、別の罪無き一般人が十人程死ぬことになるとするよ。もし天上ちゃんが殺人鬼を殺すことを選択できるとしたら、どうする?」
「そ、それは……」
 他の幾つかの命を救う為に、ある一人の命を奪うことが出来るかどうか。有名な問題ではあるが、ここで、背理は一つのアレンジを加えていた。
 つまり、"命の価値は均一でない"という条件だ。
 天上は答えを詰らせている。答えなんてものは、あるとすれば本人の中なのだろうが。
「普通の人は、もし天上ちゃんが一般人達を救う為に殺人鬼を殺したのなら、いくら殺人鬼だろうが、それを"殺人"と考えるだろうね。でも、私は違う。普通に生きる人間達の為に、殺人鬼という"より程度の低い命"が犠牲になるというのは、"正義"という名の、在るべき摂理なんだ」
「正義……?」
「うん、それが私の在り方。あ、別に、天上ちゃんにこれを押し付ける気は無いよ。分かって貰いたかっただけで。それに最近はちょっと別の用事で忙しくて、あんまり仕事できてないし」
 笑顔でそう言った背理だが、天上はやはり俯いたままだ。"分かって貰いたい"だなんて言っても、そう簡単に理解できる筈が無いだろうに。
 俺までコイツと同類だと思われたら困るな。いや、俺は俺で、真っ当な人間だとは言い難いが。
「天上。コイツはこういうヤツだと思うことにして、あまり気にしないほうが良い。コイツは常識で捉えることも、縛ることも出来ないんだ」
 そうやって助言しておいたものの、天上は何も答えなかった。
 暫くの間、俺達は言葉を全く交わさなかった。
 天上が家に飯を食いに来てるっていうのに、背理のヤツ、いきなり深刻な空気にしやがって。
 その後、背理は俺の後ろに座り込んでしまった天上を無視し、姉貴と俺の間を見回して、再び口を開いた。
「ところで、さっきは物凄く話が逸れたけどさ、さっきの事件、どう思う?」
 "どう思う"というのは即ち、俺達が出る幕であるか否か、という事だろう。
 天上も分かっているようだし、あえて話すまでもないと思うが、一応確認しておくか。
「被害者の肉片が飛び散ってて、原型を留めてなかったんだってな。明らかに普通じゃねぇだろ」
 俺には魔術使用の残滓や特異の形跡などというものは分からないし察することも出来ないから、飽くまで、誰でも分かるような事から意見を言うだけ。
 しかし、間違ったことは言っていない筈だ。
 だって、"全身が肉片となって、辺り一面に飛び散る"なんて死に方、普通はありえない。そういった殺し方が可能な道具などは存在するかもしれないが、それにしても、恐らくは騒音が発生するだろう。
 それなのに、その場に居た男一人のみであり、その男も、"何も覚えていない"等とのたまっているという。
 尋常じゃない話だろう。
「十中八九、私達の領分でしょう」
 定理の姉貴が、俺の主張を、より直接的に表現した。
「兄貴も姉貴もそう思うんだ。じゃあ私と姉貴で現場を見に行ってみる?」
「そうね」
 当然のように現場は警察により封鎖されているのだろうが、そこはコイツらで視覚操作でも何でもして潜入すればいい。
 俺は調べものが出来るような優れた能力を持っていないから、いつも通り通学するだけだ。
「俺と天上は先に学校に行ってるからな」
「ええ」
 よし、今回は何もしなくていい。そう思った矢先、姉貴はこう続けた。
「でも、良い機会だから、調べた後の事は合理と天上さんに任せることにしましょう」
「マジかよ……」
 何が"良い機会"だよ。そんな理由で命を懸けさせるなんて。
 俺だけなら多少は何とかなるかもしれないが、今回は天上も居るのに。
 しかしまあ、啖呵を切ってしまったのだからやるしかない。もはや、泣き言なんて言っていられない。
 食事を終え、姉貴と背理は早速出かけていき、俺と天上は二人、居間に残された。未だに天上は目を伏せたままだ。
 一応、出来るだけのフォローはしておくか。
 クソ、背理のヤツなんかが落ち込んでいたら"ざまあみろ"と笑えるのに、コイツの前ではどうも、俺らしくなくなるな。
「別にアイツみたいになる必要は無い。天上は天上のままで良いんだし、その為に俺がついてるんだからさ」
「ほんと……?」
 やっと顔を上げてくれたか。
「あぁ。俺なんて、一時期家出してたとはいえ、ずっと変わってねえし。成長してねえっつうか」
「じゃあ、合理君は昔から優しかったんだ」
 おい、さらっとそういう事を、微笑みながら言うんじゃない。
 俺はチョロいんだ、それだけであんたに惚れるかもしれないだろう。
 まあ、俺は自分の事をよく知っているから、そんな事にはならないが。
「優しくなんかない。まだあんたが俺のことを何も知らないだけだ」
「それなら、これから色々教えて……?」
 本当に積極的なヤツだな。学校での雰囲気は、どちらかと言えば冷淡なタイプだったから、ひどくギャップを感じる。
 やれやれ。コイツがおかしいのか、俺がおかしいのか、それとも両方か――多分、両方なんだろうな。
「追々な。とりあえず学校行こうぜ。姉貴も背理も行っちまったし」
「うん」
 
 学校に着く。
 途中で"変な噂されたら嫌だろうし、距離を置いたほうが良くないか"と天上に提案したものの、"別に問題はない"という事なので、まるで恋人か何かみたいに、隣り合って歩いてきたワケだ。
 まあ、コイツがそれでいいなら何も言うまい。俺自身は、周りのヤツらに何を言われようが興味ない。
 廊下を歩いていると、俺達の前を早足で進んでいた長い黒髪の女が突然、転んだ。
「うぅ……」
 それなりに派手に顔を床にぶつけたようで、痛がっている。何もない所で転ぶなんて、相当トロい女だな。
 抱きかかえていた教科書類も廊下にばら撒かれている。
 そんなコイツを、通りすがる生徒共は、見こそすれ、拾うのを手伝ったりはしない。誰か助けてやればいいのに。
 仕方なく、俺はコイツの持ち物を拾うのを手伝ってやった。数秒後、天上も俺に続いて、落とされた大量の持ち物の回収に助力してくれた。
 別にこんな事する必要はないのだが、何となく、見てられなかっただけだ。
 拾った持ち物には、いかにも女っぽい、丸みを帯びた文字で"供道輪廻"と書かれていた。
 聞いた事のない名前だな。俺が同級生に無関心すぎるというのもあるかもしれないが。
 "輪廻"か。なんというか、凄い名前だな。何を思って両親は娘にそんな名前を付けたんだろうか。まあ、名前については東岸も人のことを言えないが。
「大丈夫か、あんた」
 一応声をかけて、天上の分も受け取った後、集めたコイツの持ち物を差し出す。
「えっ……!?」
 すると女――供道は、俺の顔を見て、切り揃えられた前髪に少しだけ隠れた目を丸くして、そんな風に驚くのであった。
 何故こんな反応をされたんだ? 俺、何かしたか?
「もしかして俺の顔になんかついてるのか?」
「いえ……その……ごめんなさいっ!」
 供道は俺に軽く頭を下げると、せっせと立ち上がって、教科書等を受け取り、そのまま走り去ってしまった。
「なんだったんだ、天上」
「いや……私に聞かれても……」
 天上に話を振ってみたが、分かるワケないか。
 なんだなんだ? この前は隣に居る同級生に急に抱きつかれたと思ったら、今度は別のクラスの知らない同級生に、顔を見てびっくりされたぞ。
 これはアレか、いよいよ俺の東岸の名が変な方向に作用して、やたらに所謂"フラグ"ってやつが立つようになったのか? 別に嬉しくねえよ。
 どうせ女に好かれるなら、背理のヤツを大人しくさせてくれよ。そうしたらアイツが嘔吐する姿を愉しむ事が出来るんだ。
 なんつってな。アホらしい。
「まあいいか」
 よく分からないが、別に分かる必要もない。
 俺は気にしないことにして、そのままA組の教室に入っていた。
 すると何か、生徒数人から視線を受ける。多分、天上と一緒に来たからだろう。
 それも気にしないことにして、俺は黙って自分の席に移動した。
 天上の様子を見ると、友人――確か、斎藤とかいったか――とこっちを見てコソコソ話している。俺との関係でも聞かれているんだろうか。そんなもの、正直に答えても信じてはもらえないだろうから、どんな風に言い訳をするのか、少しだけ気にならないでもない。
 
 学校での一日は、特に何もなく終了した。
 俺と違い、天上のヤツには普通に友人が居るから、流石に昼休みまでくっついてくる事は無かった。
 しかし下校時間になるとすぐに、アイツはこっちに駆け寄ってくるのだった。
「おい、俺なんかと一緒に下校していいのか? いつも他のヤツらと帰ってるだろ?」
 教科書等を鞄に詰め込みながら聞く。
「その、なんか勘違いされちゃったみたいで……。"ここは空気読んで先に帰るべきだね、うん"とか何とか言っててさ」
 そう言う天上を見てみると、指で頬をぽりぽり掻いていて、満更でもなさそうな感じがした。
 コイツ、やっぱり結構可愛いな。背理みたいに腹を殴打したくなる欲求には駆られないのだが、何と言うか、"普通に"可愛いのだ。
 俺がこんな感覚に陥るなんて、らしくない。
「じゃあ一緒に帰るか」
 つい、自分からそんな風にはっきりと誘ってしまう位に、らしくない。
「うん、そうだね」
 僅かだが、笑顔を見せて天上は答えた。
 廊下を出るとすぐそこに、今朝会った女子――確か、供道とかいう名前だったか――が突っ立ってもじもじしていた。
「そ、その……」
 微かな声だったが、前髪に隠れ気味の目がこちらを見ているので、俺に用があるのだと分かる。
「あんたか。どうした?」
「今朝は、ありがとうございました……」
 そう言って、ぺこりと頭を下げる供道。
 ……もしかして、それを言う為にわざわざここで待っていたのか?
「感謝されるほどの事はしてねぇから気にすんな」
 実際、俺がやったのは、コイツが勝手に転んでばら撒いた持ち物を拾ってやっただけなんだし。
「い、いえ……嬉しかったです……あんな風に私のこと気にしてくれた人、初めてだから」
「別にあんなの当たり前だろ」
 むしろ、何故誰もコイツを助けようとしないのかが不思議で仕方がない。
 目の前でいかにも弱々しそうな女子が転んでて、何ら手を差し伸べないほうがおかしいと思うのは、単に俺が弱者に対してしか好い気になれない、下らない男だからだろうか。
「そんなこと無いです……。私なんて出来損ないだから、気にする価値なんて無いんです。実際、皆そうでしたし……」
 "出来損ない"、か。
 会ったばかりのコイツの身の上を洞察して且つ気の利いたような事を言える程、俺も優れていないんだが……。
「よくわかんねぇが、他のヤツなんて気にしなくていいと思うぞ。それはただ、ソイツらから見たあんたが出来損ないだっただけの話だ。あんたは自分の目で自分を見ればいい」
 偉そうなことを言ってしまったな。背理に聞かれたらどんな風に馬鹿にされるだろうか。
 少し恥ずかしくなって、俺は頭を掻いた。
 少しの間の後、供道が俯いて、しかしどこか嬉しそうに言った。
「優しい人、なんですね……」
 今日2回目の、"優しい"認定だ。しかも会ったばかりの、そこそこ可愛い女子からの。
 俺の第一印象は"良いヤツ"なのだろうか。だとしたら、的外れにも程がある。
「そうでもないさ」
 適当に否定しておく。変な期待を持たれても困る。
「と、とにかく、あ、あの、ありがとうございました、東岸さん」
 供道は再び軽くお辞儀をすると、急ぐように立ち去ってしまった。
 妙に覚束無い足取りで、ふらふらと歩いていったのが気になった。アイツ、体調でも悪いのか?
 もはや姿も見えなくなってしまったので、今更聞こうとは思わないが。いきなり過度に気を使うのも、本人の負担になるだろうし。
 そういえば、ふと疑問に思ったことがあったのだが。
「なあ、天上。さっきアイツ"東岸さん"っつったけど、なんで俺の名前知ってたんだろうな?」
「合理君は知らないと思うけど、あなた有名人だからね。あの定理さんや背理さんの兄弟だし、女子の間ではよく"カッコいい"とか言われてるし」
 そういう天上は少しだけ、ほんの少しだけ不機嫌そうな顔をしている気がした。少しの間だけとはいえ、放置して退屈な思いをさせたからだろうか。
 それにしても、俺が"カッコいい"だって? 余程に女子共の目は節穴である様だ。それとも、"東岸合理に腹パンされ隊"みたいな感じのアホな物好き集団でも居るのか?
 女は分からん。一般的な女子が何を考えてるかは勿論、天上のことも、供道のことも。
「あんたはどう思うんだ?」
 分からないから聞いてみるか。
「え、何が?」
「俺のこと、格好良いだなんて思ってんのか?」
「……言わせないで」
 顔を背けて答える天上。どうやら言いたくなかったらしい。
「別に構わんが……。まあいいや、姉貴達のことも気になるし、さっさと帰るか」
「だね」
 天上は頷いて答えた。
 姉貴のヤツ、"調べた後の事は俺達に任せる"とか言ってたな。厄介な事になっていなければ良いんだが。

 帰宅して、俺達は早速、居間に集合した。無論、天上も一緒だし、背理は相変わらず、眠そうにしているエーデルワイスを膝の上に乗せている。
「姉貴、今朝はどうだった? 何か分かったか?」
 相も変わらず紙上で数式を弄したままの姉貴に訊ねる。
「え、ええ。事件現場には特異の痕跡、即ち、概念境界への傷跡が見られたわ。やはりあの殺しには、何らかの形で特異が関係しているようなのだけれど……」
 ペンを動かす手を止めて、答える姉貴。
 やはり、特異の所為なのか。
 それにしても、姉貴の割には妙に歯切れの悪い物言いをするのが気になった。何かが腑に落ちないといったような様子だ。
「それで、どうしたんだ?」
「ええ、二つ気になることがあって。一つは私個人の事情だから置いておくとして、問題はもう一つ。事件現場の特異の痕跡が、時間経過による修正効果を計算に入れても小さすぎるということ」
 "特異の痕跡が小さい"。勿論、定理の姉貴からの受け売りだが。それが意味するところは大体分かる。それは概念境界へのダメージが少ないという事であり、その場合には殺傷方法として、二つの可能性が考えられる。
 一つは用いられた特異が、姉貴や背理の使用する論理武装の一つである《虚数剣》のように、強力な破壊効果を持ちながらも世界への損傷を軽微で済ませるという性質を持っているという可能性。
「ちなみに、《虚数剣》の様に、論理武装として独立していて且つ費用対効果が圧倒的に優れている特異が用いられた可能性はほぼ無いと思っていいわ」
 俺の思考に合わせたかのように補足され、第一の可能性は即座に否定された。
「そうなのか?」
「普通、世界に直接的な影響を及ぼすタイプの特異は、概念境界に一定以上の損壊を与えるものよ。私といえども世界外の全てを知る訳ではないけれど、《虚数剣》のような存在が例外中の例外であることは確かなの。だから、私が自身の手であれを論理武装として確立した時は、"優れた武器を得た"と思ったものだわ」
 なるほどな。姉貴の"自信作"は、そう易々と、野良の特異なんぞには真似できないらしい。
 となると、もう一つの可能性は。
「つまり今回の事件に関わる特異は、それ自身が外界に働きかけることをしない類の物だと思っていい。例えば、天上さんに宿る特異のように。それか或いは、一定の機能を持つようにすら見えない、至極単純な構造の特異」
 天上の名前が出て、アイツ本人は自身の手をじっと眺めていた。
 そう簡単に、人を殺めた感覚は忘れられないだろう。まあ、俺はその瞬間を見ていた訳ではないが。
「さて。今分かることはこんなものよ」
「そうか。まだ犯人の目星は付いてないってことだな」
「そんなものはこれから付けるのよ。私は痕跡から特異の構造を逆算する作業に戻るから、後はよろしく、背理。今日は多分終わらないと思うから、天上さんは適当に帰っていいわ。勿論、ご飯を食べていってもいいし」
 それだけ言うと、訳の分からない数式が書きかけの紙を持って廊下へ立ち去っていく姉貴。
 櫻岡高校の生徒全員の特異汚染状況程度であれば把握しているらしい姉貴だが、流石に万能じゃない。じっくりと時間を掛けねば出来ないこともあるのだろう。
 ところで、"よろしく"って、何のことだ? まだ話には続きがあるのか?
「しょうがないなあ。私がご飯作ればいいんでしょ」
「飯の事かよ!」
 いや、背理が飯を作ってくれるのは嬉しいが。コイツ、飯は本当に美味いからな。というより、基本的に何でもそつなくこなすタイプなのだが。ただ、いくら外面が良くて能力が高くても、性格の方に問題がありすぎて、到底嫁に出せるような妹じゃないが。
 そうだな、コイツはメイドでもやればいい。普段は偉そうな態度ばかり取ってるのが主人に逆らえなくなるのだがら、興奮しないワケにはいかないだろう。
「なあ背理。お前の《剣》でメイド服を作ってさ、それ着て調理してくれよ」
 背理にメイド服というのは素晴らしい思いつきだと感じたので、一応頼んでみる。
「《剣》は使ってあげてもいいよ? 用途は兄貴の抹殺だけどね」
 やっぱり駄目だったか。
「すまん、気にしないでくれ。まだ死にたくはない」
 妹なんだから、兄の為にそれ位の事はしてくれれば良いのに。ケチなヤツだ。
「天上ちゃん。今のうちに言っておくけど、コイツはこんなヤツだから、止めといたほうがいいよ」
 "止めといたほうがいい"? 天上が俺に何をするんだ?
「別に東岸……背理さんには関係ないじゃない」
「それがそうでもないんだよ。もし天上ちゃんがそこのバカ兄貴と結婚することになったら、あんたは私達の家に来ることになるからね。天上ちゃんみたいな可愛い女の子が、変態兄貴に汚されるのを見たくはないよ」
 何で俺と天上が結婚するみたいな話になってるんだ? そもそも俺らは付き合ってないどころか会ったばかりで、恋愛感情もクソも無いんだぞ。その可能性を持ち出すのはちょっと飛躍しすぎだ。
「俺を差し置いて変な話をするな」
「一応忠告しておいただけだよ。あんたに天上ちゃんは勿体無いからね」
 余計な気を遣いやがって。そんな忠告、誰も望んでないっつうの。
「それじゃあ私もエーデルワイスちゃんと一緒にご飯の準備してくるから」
 一方的にそう告げた背理は、朦朧としているエーデルワイスを抱きかかえ、キッチンへと歩いていった。
「ねむい~! ねむいよぉ~!」
 エーデルワイスの絞り出すような叫びが聞こえた。こんな状態のアイツに料理なんかさせたら碌なことにならないと思うんだが、その辺は背理が責任者として何とかするだろう。
 さて、また俺と天上の二人になったな。
「……特にやる事ないし、課題も無いから、晩飯まで俺の部屋でゲームでもするか?」
 これといって話題が思いつかず、そういえばお互いの趣味について何も知らなかったという事を思い出し、気まずくなっただけだ。
「うん。何するの?」
「《コード・オブ・アーク》ってRPG知ってるか?」
 《コード・オブ・アーク》。現在から約三千年後の新暦2502年の地球を舞台に、何処からか現れては人類のみを滅殺する《排斥体》と、《導力》と呼ばれる力を扱う技術を教える士官学校に所属する少年少女が戦うっていう設定のRPGだ。
 程ほどに有名であるため、これを知っているかどうかで天上のゲーマーの度合いが測れる。
 そういえば定理の姉貴にこのゲームの話をしたら、ヤケに驚いていたな。理由を聞いても答えてはくれなかったが。
「アレなら3周したけど」
「マジかよ!」
 ゲーマー度を測るどころの話ではなかった様だ。
「ってことは、何故かアレの格ゲーが出たのも知ってるよな?」
「うん。ちなみに私の持ちキャラは阿頼耶くんだから。やっぱり主人公だし、必殺技の《帝釈天・矜羯羅》のエフェクトが格好良いからね」
「お、おう……そうか……」
 意外だな。人ってのは本当に、見かけによらないもんだ。
 しかし、こうして一般的な趣味について会話していると、妙な縁で知り合った俺たちも、普通の友人としてやっていけそうな感じはするな。
 そう、これで良いんだ。姉貴や背理はともかく、別に俺達は好き好んで一般人を辞めたワケじゃないから。
 俺なんかはずっと、"特別でなければいけない自分"を受け入れてはいない。流されているだけだ。
 ただ今では、目の前のコイツという、"こちら側"に立つ理由が出来ちまったが。

【東岸定理】

 思考タスクの多くを割り当て、特異の構造の復元作業を行っている。
 無意味な犠牲者が出るのは私の望むところではないから、出来るだけ早く終わらせたいものだがしかし、少々疲れてきた。
 私は思考タスクの一部を解放した後、会話の為の内世界を構築しつつ世界外に対するポートを開放して、概念境界の外側へとリンクした。思考のリンク程度ならば、概念境界への影響はごく僅かであり、さして問題はない。
「調子はどう? 定理」
 接続先の思考が、初期状態、即ち白紙の内世界上へ、接続対象のイメージと共に音声となって出力される。
 そのイメージは、私が彼女にとっての一つの最期の時に見た、長い金髪を頭の右側で纏めた姿だ。
「あまり良くないわ、エルミリア」
 エルミリア・クラメール。私の古い友人にして、魔術においては、師に該当する。
 私の使う《演算》は、特異のコントロールに数理魔術を応用したものであるから、数理魔術の考案者であるエルミリアが存在していなければ、そもそも私の《演算》も成立していなかった。
 今の私を形成するにあたって、非常に重要な人物である。
「というと? "今の"妹や弟が何か仕出かしたのかい?」
「まだ、そういう訳ではないけれど。これからどうなるかは懸念事項だけれどね。背理はもはや、私の干渉すらも撥ね退ける"理想"を形にしてきているし、合理もこれからどうなるかは分からない」
 未知数とは、まだ私の制御下に置くことが出来るという事を意味しているが、逆に、いつまでもそうとは限らない事も意味している。
「ふーん、なるほどね……」
 エルミリアが、目を閉じて頷く。
「先日、少々強引な方法だったけれど、新しい"駒"を入手したの。潜在能力は期待できるわ」
 それを聞くと、エルミリアは自分の事みたいに、嬉しそうに笑った。
「うんうん、良かったじゃん。それで、何が問題なのさ?」
「……どう試算しても、私は勝つことが出来ないの。よしんば勝ったとしても、"私が皆を殺せない"という可能性が懸念される。もしその様な未来になってしまえば、私が自身について証明した定理が崩壊してしまう」
 それは、ただの泣き言。私らしくもない。
 そうする以外に選択肢がない時に、未来の事を試算しても仕方がないというのに。
 エルミリアが呆れたような顔をする。
「らしくないね、定理。目的を達成しようとするならば、周りの連中にも、そしてキミ自身にも感情があるってことを思い出すべきだよ。じゃなきゃ、移った情を処理できないよ。キミはコンピュータじゃないんだ」
 合理達には話していないが、私は、人間とは言い難い存在だ。しかし彼女の言う通り、コンピュータでもない。
 確かに情が移ったのかもしれない。エーデルワイスだって、どう贔屓目に見ても、私の目的上は害にしかならない存在であり、エリアアウトさせるのが最適の選択であった。しかし私は合理の頼みを聞き、敢えてそれをしなかった。
「あなたの言う通りよ」
「キミの道は、キミ自身が人間を重く見ていては歩けないよ」
「そんなつもりは無いのだけれど、結果的にはそうなってしまっているわね」
「まあ、最終的にどうするかはキミが決めることだけどね。"彼女"はこの世界の末路を受け入れているようだし。例えそれが、前回よりも随分早かろうと」
 "彼女"。エルミリアが示す其れは、私にとっては最優先すべき存在だ。それこそ、本人の意志に関係なく。
 何故ならば、私はそういう定理だから。
「大丈夫よ、私は"確率の空《プロバビリティスカイ》"を、この世界を守るわ。何を犠牲にしてでも」
「そうかい」
 エルミリアはそれだけ言うと、この話を打ち切った。
 そういえば他に話したいこともあったので、少し間を置いてから、話し始める。
「今、こちらの世界で見つけた、ある特異の痕跡から、その構造を復元しようとしているのだけれど」
「うんうん」
 興味深そうに頷くエルミリア。彼女は元来"知りたがり"であるから、自分の専門分野である魔術の範疇にない話も、積極的に聞こうとする。
「まだ完璧ではないから詳細は不明だけれど、私の気のせいでなければ、とても懐かしい雰囲気を感じ取ってしまって。だからどうしたという訳でもないけれど」
「へぇ。どの位? 私が生まれる前?」
「そうね。私にとってはずっと前の事よ。其処に居ても暇でしょうから、誰がその人物だったか当ててみると良いんじゃないかしら。私にもまだ答えは出ていないけれど、終わったら答え合わせでもしましょう」
「分かったよ。さて、これで何年の暇が潰せるかな。まあ、一年がどの位の長さだったかなんて忘れちゃったんだけどさぁ」


  • 最終更新:2015-09-29 03:47:05

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